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江戸の桜の名所~新吉原(しんよしわら)

 

江戸時代、「新吉原」(しんよしわら)
人気のお花見スポットでした。
ただこちらは、人工的な期間限定の
お花見の名所でした。
 
 

新吉原(しんよしわら)

「吉原遊廓」(よしわらゆうかく) は、
江戸幕府公認の遊廓で、
当初は日本橋葺屋町( 現・日本橋人形町) の
辺りにありましたが、
明暦3(1656)年の「明暦の大火」を契機に、
浅草の外れの千束村へ移りました。
以後、移転前の吉原を「元吉原」(もとよしわら)
移転後の吉原を「新吉原」と呼んで、
幕末まで繁栄を続けました。
 
「新吉原」へは、江戸市中から浅草へ出て、
隅田川の右岸側の堤「日本堤」(にほんづつみ) から堤から遊郭が見えないように曲がった
「五十間道」(ごじっけんみち) へ入り、
「衣紋坂」(えもんざか) を下りて
「大門」(おおもん) へ至りました。
因みに日本堤から衣紋坂へと曲がる東角の柳は
客が振り返って名残を惜しむ位置にあるために
「見返り柳」(みかえりやなぎ) と呼ばれました。
 
 
「新吉原」は東京ドーム2つ分程の広さの
長方形の土地を黒板塀で取り囲み、
周囲には「御歯黒溝」と呼ぶ堀を巡らし、
出入り口は「大門」(おおもん) 一か所だけ。
「大門」は、二本の柱の上部に冠木を貫き渡し、
上に板葺き屋根をかけた冠木門 (かぶきもん) で、
夜明けとともに開けられ、
夜四つ(午後10時頃)に閉められました。
 
「大門」を潜ると、吉原を南北に貫く
「仲之町」(なかのちょう) と呼ばれる
135間 (約250m) もの
メインストリートがありました。
ここでは華やかな花魁道中が行われた他、
春には桜を、秋には紅葉を移植するなど、
四季折々の年中行事と飾り付けが施され、
歩いて眺めるだけでも楽しめる
江戸随一の観光地でもありました。
 
そして新吉原の廓内には、
非日常的空間を見物することだけの
「素見」(ひやかし/すけん) と称される人々が多く、
吉原に訪れる人々の約七割が
この「素見」(ひやかし) だったそうです。
 

新吉原の花見

新吉原でのお花見は、寛保元(1741)年春に、
茶屋の軒下に鉢植の桜を飾ったのが
評判となったことから始まりました。
 
翌年からは、3月1日頃(現在の3月下旬頃)に、
桜の木を根付きのまま移し植えて、
散ると撤去するのが恒例になりました。
 
費用は150両(約6百から9百万円)。
妓楼や見番、引手茶屋などが
分担して負担していたようです。
 
延享2(1745)年には、
桜の木の下に山吹を植えて、
その周りを青竹の垣根で囲い、
夜は行灯(あんどん)に灯をともして
夜桜も楽しめるようにしました。
 
電気がなく、油も貴重だった時代、
満開の夜桜が行灯に照らされ、
その中を花魁道中が練り歩く、
吉原ならではの幻想的で非日常的な光景を、
江戸の人々は楽しんだようです。
 
江戸の人々だけではなく、地方からの観光客や
参勤交代で江戸に来た武士などに加えて、
普段は吉原遊郭に立ち入ることが出来ない
一般の女性にも開放したことから、
評判の桜を一目見ようと、大勢の人達が
吉原遊郭にやって来たのだそうです。