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開帳(かいちょう)

  

 

江戸の庶民は現代人よりも信心深く、
寺社への参拝は生活に根差していて、
日常的に行われていました。
まあ、ご近所さん達の手前、
「参拝」にかこつけて遊びに行っていた
というのが本当のところだったようですが。
そして寺社参拝の証拠として、お守りやお札を買ってお土産として渡していたようです。
 
 

「開帳」(かいちょう)とは

寺院などで、特定の日に、
普段は見ることが出来ない秘仏を
厨子の扉を開いて
一般の人々に拝観させることを
「開帳」(かいちょう) と言います。
本尊や宝物も行われることもあります。
 
気候の良い春先に行われる事が多いことから、
春の季語です。
 
平安時代から行われていましたが、
特に江戸時代に入ってから隆盛を極め、
特に、江戸・大坂・京都の三都や
名古屋などの大都市の寺社で
盛んに行われました。
 
「開帳」とは、本来、
仏と衆生の結縁を目的とする行事でしたが、
享楽的な世相と結びついて興行的になり、
元禄7(1694)年に禁止令が出されたほどでした。
 
後に寺社奉行に願い出て
許可を得るという「許可制」となり、
享保5(1720)年には「開帳」の間隔は
33年と定められました。
 
ところがそれも、「開帳」する仏像や
「開帳」場所を変えるなどして、
より短周期に実施されました。
 

「開帳」の目的

寺社側の「開帳」の第一の目的は、
建物の維持、修復、再建費用の捻出です。
他には、新たな信者の獲得や
参詣者の増加も目的としていました。
寺社奉行所の許可を得て行う訳ですが、
幕府側からしても「開帳」を認可することで
寺社支配の一環としていました。
 

「開帳」の種類

「開帳」には、
「居開帳」「出開帳」の2種類があります。
 居開帳(いがいちょう)
 寺院の本尊や秘仏や寺宝を
 自らの寺社で行う開帳。
 出開帳(でがいちょう)
 寺院の本尊や秘仏や寺宝などを
 他寺社を宿寺として行う開帳。
 一定の場所で行うだけでなく、
 各所を回る「巡行開帳(回国開帳)」
 もあります。
 
 
自らの寺社で行われる「居開帳」も、
地方の寺社の大規模な「出開帳」もどちらも
宗派を問わず盛んに行われました。
 
「居開帳」の「出開帳」他にも、
将軍参拝後に一般に参拝させる
「御成跡開帳」(おなりあとかいちょう) や、
疫病消除のために実施された「祈願開帳」、
他にも災害復興支援のためなど
様々な理由をつけた
臨時の「開帳」が行われました。
 
これらの「開帳」は
日本中で行われたとされますが、
何と言っても人口の多い江戸で盛んに行われ、
江戸初期の承応から幕末の慶応
(1652-1868)の間に1565回も行われました。
特に田沼時代を中心とする
約50年間が最盛期でしたが、
寛政期 (1789-1801) 以降は次第に減り、
天保改革 (1841-1843) 以後は
「出開帳」が激減しました。
 

「開帳」の主な収益源

「開帳」からの収益は、主に、
「賽銭収入」や
「守札 (まもりふだ) や略縁起などの販売」に
「奉納物や奉納金」です。
略縁起(りゃくえんぎ)
「縁起」には、寺社や神仏・高僧の
起源、歴史・伝記という意味もあります。
「略縁起」は、
正式な「縁起」を簡単にまとめたもので、
御利益に預かりたい庶民が寺社参詣の折に
買い求めました。
 
特に参詣者の投じる賽銭が大きいことから、
参詣者が多いほど
多額の収益が見込まれるため、
それゆえに「開帳」は
集客力のある寺社が選ばれる傾向にありました。
 
居開帳(いがいちょう)
江戸で行われた「居開帳」は、
30回以上も行われた「浅草寺観音」を筆頭に、
「護国寺観音」「亀戸天神」「洲崎弁天」
そして「江の島弁天」(えのしまべんざいてん) などが
代表的でした。
 
江戸から近場である「江の島」は、
庶民も2、3泊の泊まりがけで
行くことが出来ることから、
「江の島詣」は人気を集めました。
「江の島弁財天」の御開帳を見るだけでなく、
更に鎌倉や金沢八景、箱根などにも
足を延ばしました。

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出開帳
「出開帳」の目的も、
寺院の修繕費を集めです。
更に「出開帳」には様々な費用も掛かるため、
それらを回収するには、「場所選び」が
重要な鍵を握っていました。
 
江戸で人が集まるところと言えば、
人気観光スポットの
「浅草」と「深川」と「本所」でした。
そのため「出開帳」の多くは
このエリアの寺社で行われました。
 
「出開帳」の人気の受け入れ寺院は、
両国の「回向院」や深川の「富岡八幡宮」、
「芝神明宮」「湯島天満宮」「浅草寺」
「護国寺」「茅場町薬師(智泉院)」
「蔵前八幡宮(現在の蔵前神社)」
「市ヶ谷八幡宮(現在の市谷亀岡八幡宮)」
「愛宕権現社(別当円福寺)」などです。
 
特に人気No.1は「回向院」で、
江戸で741回行われた「出開帳」のうち、
166回を「回向院」が占めていたと
言われています。
また「回向院」で安永7(1778)年に行われた
60日間で163万人が訪れたそうです。
 
なお、江戸で開催された「出開帳」のうち、
常に参詣人が集まり評判となったのは、
京都嵯峨の清涼寺の「釈迦如来」、
長野の善光寺の「阿弥陀如来」、
山梨身延山の久遠寺「日蓮祖師像」、
千葉の成田山新勝寺の「不動明王」で、
これらは 「江戸出開帳四天王」 と呼ばれました。
 
清涼寺と善光寺はほとんど「回向院」で、
久遠寺は同じ日蓮宗の深川「浄心寺」で、
成田山新勝寺は深川「永代寺」で
「出開帳」することが多かったようです。
勿論「出開帳」は江戸以外でも行われました。
 

開帳見物


「開帳」は、あくまでも
信仰の上に成り立つものですが、
一般の庶民にとっては、信心とともに、
行楽の対象でもありました。
開帳される寺社の境内や付近には、
見世物小屋や飲食店などがひしめき合い、
大変な賑わいを見せました。
 
また寺社のある場所は眺望の良い場所も多く、
花や紅葉の名所でもあったことから、
人気レジャーの一つでもありました。
 
特に「開帳」が盛んに行われたのは、
浅草の「浅草寺」、本所両国の「回向院」、
深川の「深川八幡」でした。
 
本所両国の「回向院」
「出開帳」が多く行われた「回向院」は、
明暦3(1657)年「明暦の大火」の焼死者の
供養を目的として建立された寺院です。
回向院」は、その後、江戸市中全ての
無縁の亡骸を手厚く葬る無縁寺として、
有名になりました。
 
「明暦の大火」で
大勢の人が亡くなった原因のひとつは、
隅田川に橋がなく、
逃げる場所を失ったからだそうです。
 
そこで江戸幕府は「大橋」を建造。
この橋が架かることにより、
隅田川西側の 「武蔵国」 (むさしのくに) と、
隅田川東側の 「下総国」 (しもうさのくに) が結ばれ、
大橋は「両国橋」と呼ばれるようになり、
両国橋の袂 (たもと) には火事の際に避難する
空き地「両国広小路」が設けられました。
 
そしてこの「両国広小路」界隈は、
「両国橋」を渡った先にある
回向院」に参詣する人々で賑わうようになり、
江戸前グルメの屋台や
大道芸・お芝居などの見世物小屋が立ち並び、
江戸で最大の盛り場として繁昌しました。
 
享保18(1733)年5月28日 (旧暦) の川開きの夜に、
初めて本格的な大花火が打ち上げられ、
また天明元(1781)年からは、
境内で勧進相撲が行わるようになりました。

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浅草寺の「奥山」
浅草は、時代とともに拡大していく
江戸市街地として吸収され、
参詣・行楽・歓楽を目的とした人々が溢れる
江戸有数の盛り場になりました。
 
浅草寺」の境内にも茶屋が立ち並び、
多くの参拝者で賑わいましたが、
観音堂の北西側のエリアにあった「奥山」には
参拝者が休息する水茶屋や楊枝屋が並び、
芝居・見世物・独楽回し・猿芝居・居合・軽業・
手妻 (奇術) などの見世物小屋が立ち並び、
人々はこぞって押しかけました。
 
また将軍が参拝する時は特別に
「御前立ご本尊」の開帳が行われ、
その後数日間、一般の人々に向けた
「御成跡開帳」(おなりあとかいちょう)
行なわれました。
江戸時代には、
浅草観音の開帳が30回以上も行われ、
その日は参拝者も一段と増えたそうです。

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