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逃げ水(にげみず)

 
 

逃げ水(にげみず)

「逃げ水」とは
日差しが強まってくる
晩春から夏にかけてのこの頃、
強く熱せられたアスファルトの道路上などに、
ゆらゆらと水溜まりがあるように見えることが
あります。
 
ただ水溜まりだと思って近づいても、
実際には水溜まりはなく、更に遠く見えます。
あたかも水溜まりが逃げているように
見えることから「逃げ水」と呼ばれています。
 
地面が水面のように見えることから
「偽水面」(ぎすいめん)
また鏡のようにも見えることから
「地鏡」(ちかがみ) と呼ばれています。
 
「逃げ水」の仕組み
「逃げ水」は、遠く離れた景色が
実際とは違う形や向きに見える
「下位蜃気楼」の一種で、
光の屈折により、地面の下に逆さになったもの
(この場合は空など)が見えます。
勿論本物ではなく、目の錯覚です。
 
晴天の日に道路面などが異常な高温になると、
これに接した地面付近の空気も暖められます。この異常に暖められた空気の層に比べ、
その上にある空気の層は
地表付近ほどは暖められませんので、
温度の違う2つの空気の層が出来ます。
この2つの空気の層の境目を光が通る時に
光が曲げられて、遠くのものが
下の方向に反転して見えるようになるのです。
 

武蔵野の逃水

気象学者がこの現象を
もっぱら「逃げ水」と呼ぶようになったのは、
大正末期からのことだそうです。
 
かつて「逃げ水」と言えば、
「武蔵野」の序詞 (じょことば) で歌枕化され、
「武蔵野の逃水」は古歌にも登場しました。
 
乾燥の台地
武蔵野台地は、
武蔵野砂礫層や立川砂礫層から構成され、
更にその上位は関東ローム層が厚く覆い、
いずれも透水性が良いので、雨が降っても
すぐ浸透しまう乾燥の台地でした。
 
日本武尊 (やまとたけるのみこと) が東征の折、
この場所で飢渇に悩み、
塚を築いて富士の神に祈ったところ、
やっと井戸を掘り当てたというので、
「堀兼」の地名が起こったという
伝説もあります。
 
幻の川
埼玉県狭山市入曽地区には
「逃水」という小字名があり、この辺りは
「逃水の里」(にげみずのさと) と称されています。
渇きに悩み荒野を辿る旅人は、
しばしば「逃げ水」と呼ぶ幻の川を見たと
言われました。

www.city.sayama.saitama.jp

 
伏流水・末無川
乾燥の台地は、泉が枯れやすく
また他に発生しやすいことから、
水の流れが地中に隠れている「伏流水」とか、
小川の末流が地中に浸み込んでしまう
「末無川」(すえなしがわ) の現象とする説も
あります。
 
地図のなかった時代、台地を往来する人々は、
「かつて通った時には小川があったのに、
 今はどこにも川が見つからない。」
あるいは逆に、
「以前通った時は確かに小川がなかったのに、
 今日は小川が流れている。」
 
霧や霞
「逃げ水」は「幻の川」ではなく、
武蔵野に特有の低所に発生する霧や霞として、
知られていたという説もあります。
 
所沢在住の江戸の文人・斎藤鶴城 (かくじょう) は、
文政12(1829)年刊行の『武蔵野話』の中で
次のように書いています。
 
春の末、夏のはじめにたびたび見たる事あり。
一体は原中の気にして、夜、土中よりむし昇りし
烟露 (もや) の一面に引わたしたるを、
風にて地上に吹しくゆへ、
しぜんとしろく水のごとく見ゆるなり。
彼方より来る人を見れば、
腰より下は烟露 (もや) にてみえず、
水中をわたると疑へば、
此方もまたかなたにて水ありとおもへるなり。
近寄りてさきに水ありやと問はなしとこたふ。
朝辰半刻 (いつつはん) ごろになれば陽気盛んになり、
しだいしだいにもや消えて跡かたもなし。
これを逃水といふ。
 
この乾燥地の初夏の朝は、
地表の温度が急に上がって、
空との間に大きな温度差が出来て、
このため光が屈折して、
空の靄 (もや) が地上にゆらめいて見えますが、
それも辰刻半 (9時頃) にもなると
跡形もなく消えてしまう・・・。
 

比喩的な意味

過酷な自然が生んだこの異常現象から生まれた「武蔵野の逃水伝説」は、
武蔵野を見たこともない
京の都の平安歌人の間にも知れ渡って、
歌枕にさえなったのでした。
 
東路に 有といふなる 逃げ水の
逃げのがれても 世を過ぐすかな
源 悛頼『金葉集』(1128年頃)
 
 
これは平安後期の歌人・源俊頼が書いた歌です。
『東海道にあるとかいう「逃げ水」のように、
 こうして世のしがらみを厭い遁れて、
 出家遁世し世を逃れても、結局、
 この世に生きて暮らしてはいるのだなあ。』
大体、こういった意味です。
 
また、
「逃げ水を追いかけても結局手に入らない」
といったように、夢や希望、あるいは、
現実には存在しないものを追い求めること、
実現不可能なものを追い求めることを
表すことにも使われています。