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♪ 童謡『てるてる坊主』 あした天気にしておくれ

 
♪「てるてる坊主てる坊主
 あした天気にしておくれ」で始まる
『てるてる坊主』は、
浅原鏡村(浅原六朗)が作詞し、
中山晋平が作曲した童謡です。
 
 
大正10(1921)年、『少女の友』で発表されると、
優しいメロディーと
晴れを願う気持ちが込められた歌詞が
人気となり、
後に、文部省唱歌として
教科書にも掲載されました。
 
 
こうして童謡『てるてる坊主』が
歌われるようになると、
日本全国に
「てるてる坊主」という呼び名が定着し、
「てるてる坊主」は雨の日の定番となり、
今では遠足や運動会の前の日に
子供達が願いを込めて吊るす風景が
当たり前になりました。
 
 

初出は『少女の友』

 
童謡『てるてる坊主』は、大正10(1921)年、
『少女の友』六月号(実業之日本社)に
『てるてる坊主の歌』として発表されました。
 
当時、『少女の友』の編集員であった浅原六朗が
鏡村 (きょうそん) というペンネームで書いた詩に
中山晋平が曲をつけたものでした。
『少女の友 創刊100周年記年号
 明治・大正・昭和ベストセレクション』の
237ページには次のように書いてあります。
「第三代主筆の浅原鏡村が新人時代に、
 当時の主筆・岩下小葉の命で作ったもの
 だとか。」
なお浅原鏡村(六朗)は、
大正十三年六月号から昭和二年十二月号まで
第三代主筆として活躍しました。
 
ところで『少女の友』(しょうじょのとも) は、
「少女にこそ一流の作品を」のモットーの下、
明治41(1908)年に創刊され、
昭和30(1955)年まで48年間続いた
実業之日本社が発行していた
伝説の少女雑誌です。
これは日本の出版史上、
最も長きに渡り刊行された少女雑誌であり、
この記録は今なお破られていません。
 
 
川端康成、吉屋信子、中原中也らが筆を奮い、
若き中原淳一が表紙画家として活躍しました。
 
 
なお浅原鏡村の童謡作品はこの一編のみで、
鏡村はこの一作のヒットで名を残しました。
一方、多くの童謡を作曲した中山晋平が
作曲した最初の童謡だそうです。
 

わらべ唄がルーツ

童謡『てるてる坊主』は3番までありますが、
前半の歌詞はいずれも、耳と目に馴染み深い、
 「てるてる坊主 てる坊主
  あした天気にしておくれ」
です。
 
稲作・農耕の根付いた日本では、
天気は常に人々の関心事でした。
古代から、旱 (ひでり) の時には「雨乞い祭」、
長雨の続く場合は「照り乞い祭」を
行ってきました。
 
その「照り乞い祭」に用いていたものが、
江戸時代に、子供の遊びに入って
「照り雛(照れ照れ坊主)」になり、
「てるてる坊主」へと変化しました。
「てるてる」は太陽が「照る(てる)」こと、
つまり「晴れ」を意味し、
「坊主」は丸い頭が僧侶に似ていることから
名付けられたと言われています。
地域によって、「照法師」(てるほうし)とか
「てりてり坊主」「日和坊主」(ひよりぼうず)
などと呼び名が異なっていることから、
「てるてる坊主」が日本各地で
親しまれてきたことが分かります。
 
「てるてる坊主」を作って、
軒下や南天の枝にぶら下げて、
「♪ 明日天気になれー!」と祈る時に
勝手に節付けして歌ったメロディーが
「わらべ唄」として日本各地に残っていました。
 
中山晋平はこの「わらべ唄」のメロディーを
さりげなく採り入れたのです。
 

♪ 童謡『てるてる坊主』


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歌詞
 童謡『てるてる坊主』
             作詞・浅原鏡村
             作曲・中山晋平
 
1.てるてる坊主 てる坊主
  あした天気にしておくれ
  いつかの夢の空のよに
  晴れたら金の鈴あげよ
 
2.てるてる坊主 てる坊主
  あした天気にしておくれ
  わたしの願いを聞いたなら
  あまいお酒をたんと飲ましょ
 
3.てるてる坊主 てる坊主
  あした天気にしておくれ
  それでも曇って泣いてたら
  そなたの首をチョンと切るぞ
 
最初の歌詞
大正10(1921)年、『少女の友』に発表された時の
タイトルは「てるてる坊主の歌」で、
歌詞は一番から四番までありました。
 
一番の歌詞は次のようなものでした。
 てるてる坊主てる坊主
 あした天気にしておくれ
 もしも曇つてないてたら
 空をながめてみんな泣こう
 
昭和58(1983)年)9月15日 (木) 朝日新聞長野版
「ふるさとのうた 16」には、
「浅原が松本城に立ち寄った際、
 城内から眺めた
 北アルプスの夕日の美しさにうたれ、
 宿泊した浅間温泉の宿で作詞したという。」
とあります。
 
更に鏡村の自伝には、
5歳まで過ごした生まれ故郷の
長野県安曇野市池田町に行くに当たって、
天気が気になり、
「明日は晴れて欲しい」という思いが
望郷の念と重なって、詞が浮かんだと、
書かれています。
 


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池田町役場敷地内の一角には
また毎年6月には、「てるてる坊主童謡まつり」が行われています。

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晋平が一番を削除
その後、作曲をした中山晋平は、
『少女の友』誌上では4番まであった歌詞の
一番を削除して2番以下を順次繰り上げ、
「てるてる坊主」と改題し、
曲の一部を現在歌われている形に改め、
大正11(1922)年12月発行の
中山晋平作曲『童謡小曲』第2集 (山野楽器店) に
収載しました。
 
そして大正12(1923)年、東亜レコードから、
歌手・佐野伊久恵によるレコードが発売されて
全国に広まりました。
 
願いが叶って晴れたら…
願いがかなって晴れたら、
1番では「♪金の鈴あげよ」、
2番では「♪あまいお酒を たんと飲ましょ」と
なっています。
願いを叶えてくれた
「てるてる坊主」へのお礼は、顔を描き込み、
「甘酒」や「御神酒」を頭からかけたり、
お供えして感謝を伝えるのは伝統的な作法です。
勿論「の鈴」も、てるてる坊主にとっても
素晴らしいお供え物ですね。
 
願いが叶わず雨が降った場合…
首をチョン切る?
一方三番は、願いが叶わなかった時の対応が
歌われています。
「♪それでも曇って 泣いたなら
 そなたの首を チョンと切るぞ」
 
怖ーっ!と思った方も多いでしょうが、
○○をしたらいい物をあげますが、
そうでなければ怖い目に合わせます…
という発想は、
古い子守り歌によく見られるパターンです。
また「首をチョンと切る」は
あどけない子供が持っている残虐性の表れ
とも言えます。
 
浅原鏡村の知人が、この3番の歌詞について、
彼に尋ねたことがあったそうです。
「どうして、このような歌詞にしたのか?」
 
それに対して浅村鏡村は、
「子供というのは、トンボの首を刎ねたり、
セミの羽をむしったり、カエルをいじめたり、
そうした残酷なことをするから、構わないよ」
と答えたそうです。
 
現代は、願いを叶えてくれなかった
「てるてる坊主」への対応の仕方としては、
無理にお酒をかけたり、
川に流す必要はありませんが、
おまじないをしてくれたことに対して
「また次よろしくね」と心の中で労った、
感謝を込めてそのままゴミ箱に処分することが
推奨されています。
 

イタリアで賞を獲得!


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♪ 童謡『てるてる坊主』は、
昭和51(1976)年、
イタリアのボローニャで行なわれた
国際児童音楽祭
「第18回 ゼッキーノ・ドーロ」に
「Teru terubozu」というタイトルで出品され、
外国曲部門の優勝に当たる
ゼッキーノ・ダルジェントを受賞しています。
 
 
大正時代に生まれた曲が
半世紀以上の時を超え、
イタリアの地で評価されたのです。
「ゼッキーノ・ドーロ」とは、
イタリアのボローニャで1959年から
開催されている子供の歌の歌唱コンクールで
その様子はテレビとラジオで中継されるほど
人気です。
「子供のための歌を、子供が歌い、
 子供が審査する」という
特色あるコンクールで、
審査員も3~12歳の子供が務めていました。
 
  
 
なお「黒猫のタンゴ」「トレロカモミロ」
「ちびっこカウボーイ」「44ひきのこねこ」
「ママごめんなさい」といった曲も
実はこの「ゼッキーノ・ドーロ」から生まれ
日本語に訳され親しまれている曲です。
 
この時、♪ 童謡『てるてる坊主』歌ったのは、
8歳の日本人の男の子、粟国 淳 (あぐに じゅん) 君。
かわいーっ!
 
イタリアの音楽祭への出品曲ということで、
基本はイタリア語で歌い、
途中に3番の日本語詞が入り、
またイタリア語で歌っています。
昭和51(1976)年6月21日に
粟国君の歌唱によるレコードが、
キングレコード(セブンシーズ)から
日本で発売されました。
 
粟国君は、オペラ演出家・粟国安彦さんの
長男として東京で生まれ、
2歳半で家族と共にローマへ移住。
サンタ・チェチーリア音楽院で
ヴァイオリンと指揮法を学び、
新国立劇場やローマ歌劇場で研鑽を積み、
現在は、イタリア・ローマを拠点に
オペラ演出家として国際的に活躍されています。

asuhenokotoba.blogspot.com