
田んぼの準備が完了し、
苗の長さが15cm位になったら
いよいよ「田植え」です。
「田植え」前日の夕方か当日の朝早くから
苗取りを行い、束ねた苗を田んぼに運びます。
男性が苗を運んで田んぼに目印を付けた後、
「早乙女」(さおとめ) と呼ばれる女達が
苗籠を腰に付けて「田植え」をしました。
古くは、「田植え」は、主に、
生命を生み出す存在である女性達の仕事だったのです。
手作業による「田植え」は、
稲作作業の中で「稲刈り」とともに
最も多くの労働時間を必要とし、
水利の関係から限られた短い期間のうちに
行わなければなりませんでした。
そのため家族だけでなく、親戚や親しい家、
「結い」(ゆい) と呼ばれる地域の組織の
協同作業として行われました。
既に平安時代から、多数の女性を
「田植え」の労働力として動員したそうです。
農家の女性だけでなく、
町屋の女性も頼りにされただけでなく、
日雇いや村外からの出稼ぎ労働に頼りました。
「田植賃金」(たうえちんぎん) は、
一般より高く、待遇も良かったことから、
自分の村の田植の前後に出稼ぎをする風習も
ありました。
瀬戸内海の島々からは中国・四国の各地に、
また新潟県からは、長野県、山形県へと渡る
「早乙女」の出稼ぎも見られました。
また山形県庄内地方から秋田県由利地方に
出掛ける者は「しょとめしょとめ」と触れて
歩いたそうです。
「早乙女」(さおとめ) は、
田植女 (たうえめ)、植女 (うえめ)、
そうとめ、しょとめなどとも
呼ばれました。
一方山梨県南都留郡では、
村の娘は「早乙女」にならず、
毎年静岡県から入ってくるのを待ったそうで、
そのための「早乙女宿」もありました。
「田植え」は単なる農作業ではなく、
神霊を迎え祀る神聖な行事で、
田植えの始まりを「さおり (さびらき)」、
田植えの終わりを「さのぼり」と言います。
田に植え付ける女性達「早乙女」(さおとめ) が
「さおり」から「さのぼり」までの間に行うのは、
単に農作業と言うことだけでなく、
「田の神様」をお迎えする農耕儀礼の意味が
ありました。
「早乙女 (さおとめ)」の「さ」は、
「早苗 (さなえ)」の「さ」、
「早苗振 (さなぶり)」の「さ」などと同様に
「田の神」に捧げる稲のことを指します。
つまり「早乙女」は、
「田の神に仕える乙女」のことであり、
「諸社の神田を植うる女のこと」です。
「早乙女」は、本来は、「田植え」に際して
田の神を祭る特定の女性を指したものと
考えられます。
かつては、田主 (たあるじ) の家族の若い女性を
「家早乙女」とか「内早乙女」などと呼んで、
彼女達がその役割を果たしたようです。
もしくは相互扶助を目的とした「結い」の
女性だけを「早乙女」と呼んだようです。
それが「田植え」に女性の労働が重んじられたこともあり、次第に「田植え」に参加する
全ての女性達を「早乙女」と呼ぶように
なりました。



「田植え」時の服装は晴着の一つで、
「早乙女」の服装は田の神を祭るための
一種の祭装束でもありました。
「早乙女」だけでなく、男達も皆、
真新しい装いで出るものであったため、
この日を目当てに
一家の者の仕事着を調えることは、
その家の主婦の欠かせない務めとされて
いました。
土地によっても異なりますが、
田の神に仕える装いとして、
紺の単衣 (ひとえ) に赤い帯、赤襷 (あかだすき)、
紺の手甲脚絆 (てっこうきゃはん) をして、
白い手拭を被り、新しい菅笠を着け、
一列に並んで、苗を植えました。