
日本で行われている「お盆」の由来は、
日本固有の信仰に由来するものだと
主張した人がいます。
日本の民俗学を起こし、学問的に体系化した
柳田国男です。
『先祖の話』の「43 盆とほかい」の中で、
次のように記しています。
例えばわが邦では、旧暦7月15日に、
盂蘭盆会という法会を執り行わしめられた例が
公にもかなり古くからあった。
しかしそれだからこの前後の幾日間を
盆というようになったのだという仏者の説は、
有名また平凡だというばかりで、
ちっともまだ証明せられてはいないのである。
果たして梵語のウランブナを、
ボンと略しても通ずるような語法があるのか。
もしくは漢土において音訳を盂蘭盆を、
盆と書いても通用した例があるのか。
私の解釈とても一説に過ぎないが、
盆または盆供は中世以前の記録では、
たいていは皆瓫の字を用いている。
瓫も盆もともに土焼きの食器のことで
同じものらしいが、これを女や子供までが
初めから音で呼んでいたか、
ただし今日の「御座る」という語のように、
文字を識る人々のしゃれてボンと唱えたのが、
後々普及したものか、
実は漢文で見ていただけでは判らぬのである。
中世の歌にはボニまたはボニスルという言葉が
たしかにある。
柳田国男は、中世までの資料によると、
「盆」ではなく、
ほとんど「瓫」という漢字が使われ
「ボニ」と訓じられていたとことから、
これがそもそもの語源ではないかと
推察したのです。
現在は「瓫」という漢字は使われていませんが、
「瓫」は精霊に供える盆供を盛る器として
使われていました。
平安時代も11世紀になると、
公家の日記などには
「瓫を送る」とか「拝瓫」という語が
しばしば出てきます。
権大納言 藤原行成の日記『権記』の
長保六(1004)年七月十四日記事には
「今日物忌なり、瓫料五具を所々へ送る」
とあります。
右大臣 藤原実資の日記『小右記』の
長和二(1013)年七月十四日記事には
「拝瓫寺々へ頒送す」とあります。
関白太政大臣 藤原忠実の日記『殿暦』(でんりゃく)の康和五(1103)年七月十四日記事には
「北政所京極殿に御渡す、余御共に参る、
今日日次に依って宜しく拝瓫すべし、・・・」
とあります。
これを見ると、7月14日は
「瓫」に食物を入れて御先祖に供える
「拝瓫の日」であったようです。
そして家で亡き人に対する「拝瓫」が終わると
「盂蘭盆会」を行なっているゆかりの寺々へ
「瓫」を送りました。
平安時代、こうした「拝瓫」の行事と
寺院へ「送瓫」することが
藤原氏など貴族中心の盆行事だったようです。
この頃は、「瓫」を寺へ送っても、
施主が寺へ参詣して供養するということは
なかったようです。
このように盆行事の中心は死者への供物、
つまり「盆供」にありました。
そもそも『盂蘭盆経』に解かれていたような、
父母や七世父母を「倒懸の苦しみ」から
救うためにしているのでしょうか?
ほとんどの日本人は、「お盆」とは、
亡くなった「先祖」をお迎えして祀ることだと
思っています。
「盂蘭盆」の語源をサンスクリット語の
「ウラバンナ (ullambana;烏藍婆拏)」の音写で
その意味は「倒懸」、
つまり逆さまに吊るされる苦しみ
という意味とする解釈は、
唐代の貞観年間(627-649)末の
大慈恩寺僧玄応の撰述になる
『一切経音義』(いっさいきょうおんぎ) が最初です。
ですが、それよりずっと以前の西晋(265-316)の
竺法護 (じくほうご) 訳『仏説盂蘭盆経』には、
「倒懸」の語は見られず、
「百味の飲食を以て盂蘭盆の中に安じて
十方自恣の僧に施して乞願わば」と、
供物の容器としての盆であると
明記されています。
6世紀の『荊楚歳時記』も、
『仏説盂蘭盆経』を引用しながら、
盆が容器であることを自明のことと
記しています。
平安中期の源高明『西宮記』や
大江匡房『江家次第』(ごうけしだい) にも
「倒懸」の語はありません。
『盂蘭盆経』を紹介している、
源為憲『三宝絵』(984)は
やはり「盆器」の意味としています。
「倒懸」の解釈が最初に見えるのは
一条兼良の『公事根源』(1422頃)で、
「盂蘭盆は梵語也 倒懸救器と翻訳す」と
あります。
ところで「倒懸」の解釈が一般化するのは
ずっと後のことで、近代の仏教学者の
ドイツのロイマンに師事して
サンスクリット学を学んだ荻原は、
「烏藍婆拏 」とは「倒懸」の苦しみを受ける
という意味のサンスクリット語の
「アヴァランバンテ (avalambante)」に近い、
「アヴァランバナ (av-alambana)」の俗語形の
「ウランバナ (ullambana)」であると言い、
それがそのまま長い間定説となって、
辞典類でもそのように書かれています。