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コツコツと

「お月見」の由来

 

空気が澄み、しかもまだ寒くないこの季節は
月を観賞するのには最適です。
そのため昔から「お月見」の宴が開かれて
いました。
 
 

神話の時代

月を愛でることは、
縄文時代から既にあったと言われています。
日本の神話には夜の世界を司る月の神様
「月読命」(つくよみのみこと) の存在があります。
 
月の満ち欠けを暦代わりにして
農耕を営んでいた古代人にとって、
月は農耕の神、信仰の対象であり、
月に寄せる想いは深いものがありました。

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China「中秋節」

 
美しい月を見て楽しむことは
古今東西共通のことです。
「中秋の名月」を観賞することは、
China「中秋節」に由来すると言われています。
8世紀の『全唐詩』に載る
王建の「十五夜望月 (十五夜、月を望む)」や
白居易の 「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」
などは有名です。
「八月十五日夜、禁中独直、対月憶元九」
 八月十五日夜、禁中に独り直し、
 月に対して元九を憶ふ・・・・
八月十五日の夜に、宮廷で一人で宿直をしている時に、月を見ながら友人の元稹 (げんしん) のことを思う・・・。
 
丸い満月はChinaでは「団欒の象徴」と考えられ、
この日は家族や親しい友人を招き、
月を愛でながら食卓を囲んで団欒を楽しみます。
また満月を象った「月餅」(げっペい)を食べたり、
提灯やランタンに火を灯したりする風習がある
・・・ということらしいです。
 

平安時代の「月見の宴」

 
始まり
いわゆる「中秋の名月」を愛でる風習が
始まったのは、平安時代のことです。
唐の風習に一早く反応する漢学者により
9世紀後半に「観月の宴」が始まりました。
 
文徳朝の貞観年間(859-877)の
島田忠臣の『田氏家集』という漢詩集には
八月十五夜の「観月の宴」を詠んだ詩が三首、
確認出来ます。
また菅原道真の詩文集『菅家文草』にも
貞観6(864)年以後、「観月の宴」が催されていた
ことが分かります。
 
 
 
宮廷行事としての「中秋の観月の宴」は、
『日本紀略』に、延喜9(909)年閏8月15日の
「夜、太上法皇(宇多法皇)
 文人ヲ亭子院ニ召シ、
 月影浮秋池ノ詩ヲ賦セシム。」とあるのが
初見と言われています。
 宇多法皇が文人を召して
 「秋池に月影が浮かぶ」という題で
 詩を詠ませた。
 
 
更に宇多法皇は、
9月13日にも「観月の宴(後の月)」を設け、
「お月見」に大きな役割を果たしました。
宇多法皇(天皇)が菅原道真を抜擢して
重用していることからすれば、
宇多天皇の御代に「観月の宴」が始まったのは
菅原道真の影響かもしれません。

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月の宴
 
この風習は宮中での行事として定着しました。
平安時代中期までに、
30例近くの記録が様々な書物に見られます。
例えば『栄花物語』(月宴)には、
康保3(966)年8月15日の夜に
「月宴せさせ給はんとて、
 清涼殿の御前にみなかたわかちて
 前栽うゑさせたまふ」とあります。
月宴(月の宴)を催そうとして、
清涼殿の御前に一面に仕切りを設けて
前栽(庭の植物や飾り)を植えさせなさる
 
そして宮中の行事として行われたことで、
貴族の私邸でも模倣されるようになり、
月を題材に和歌を詠んだり、楽器を奏でたり
しました。
また空の月を見るのではなく、
池に浮かべた舟から水面に映った月を愛でたり、
また杯に月を映して酒を飲んだりして、
「中秋の名月」を楽しみました。
 
観月祭
現在も京都では「観月祭」が催されています。
嵯峨野の「大覚寺」(だいかくじ) では、
日本三大名月鑑賞地と言われる「大沢池」に
舟を浮かべて、山の端に見える月を楽しむ
「観月の夕べ」が行われています。
「大沢池」はChinaで月の名所として知られる
洞庭湖 (どうていこ) を模して造られたもので、
ここに嵯峨天皇が月舟を浮かべて、
水面に映る月を愛でながら
文化人·貴族の方々と遊ばれたことに因んだもの
と言われています。

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銀閣寺」も、背後にある月待山から
月が上るのを見るために建てられたと
言われています。
 
 
庭には月の光を反射するための
という二つの砂盛が設えられています。
月の光は盛砂の中にある石英を照らして、
光が反射して「銀閣寺」を浮かび上がらせると
言われています。

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17世紀の初めから中頃にかけて造られた
桂離宮」も月と関係が深い所です。
「中秋の月」の夜に正面に月を見るための
月見台が設置されている他、
茶室 「月波楼(げっぱろう)、手水鉢 「浮月」(うきづき) があることでも知られています。
 
 
日本三大名月鑑賞地として知られる、
奈良市にある「采女神社」の「猿沢池」では、
中秋の名月の日に「采女祭」が行われています。
 
 
月の顔見るは忌むこと
 
ただ一方で平安時代には、『竹取物語』には
「在る人の『月の顔見るは忌むこと』
 と制しけれども」という記述があるように、
月を見ることは敢えてしないという風習も
ありました。
『源氏物語』の宿木の巻にも、
「月見るは忌みはべるものを」とありますし、
『後撰和歌集』には
「月をあはれというは忌むなりと言ふ人の
 ありければ」という詞書が添えられた歌も
あります。
 
『古今和歌集』の在原業平の歌に
「おほかたは月をもめでじこれぞ
 この積もれば人の老いとなるもの」
というのがありますが、これは、
「そもそも月を愛でることはするまい。
 月が積もり積もれば人の老いとなるから」
つまり、
「暦では月の満ち欠けによって月日を数え、
 それが重なって年を数えることになるので、
 人は月を見ながら老いて行くことになる。
 老いに繋がるので、月を見ることを忌む」
といった意味になります。
 
この月を見ると寿命が短くなるという理解は、
唐の詩人・白楽天の詩集『白氏文集』から
来ていると言われています。
第十四「贈内」(つまにおくる) に、
「月明に対して 往事を思ふことなかれ
 君が顔色を損じて 君が年を減ぜん」
月明かりに向かって、過ぎた昔を懐かしんではいけない。
あなたの容色を損ない、寿命を縮めてしまうから。
とあります。
 

中世の「お月見」

「お月見」の風習が
武家や庶民へと広がる
 
鎌倉・室町時代になると武士が台頭し、
庶民も次第に力をつけるようになったことから、
「お月見」の風習は武家や庶民へと広がり、
再び古代の農耕儀礼と結びついた風習に
帰って行きました。
そして稲の初穂、里芋、枝豆、団子を供えて、
神々に豊作を感謝する行事が定着しました。
 
また室町時代になると宮中でも、
平安時代の貴族の風雅な宴という形から、
より簡素な遊宴へと変化し、
室町後期には供物をする習慣が生まれて、
「十五夜の月」にお供え物をするという形に
変わっていきました。
 
茄子の穴から月を見て
願い事をする
 
宮中の「名月の御献」では、
里芋と茄子を酒肴としました。
そしてこの時、
茄子に萩の箸で穴を開けて手で持ち、
清涼殿の庇で穴から月を見てお願い事をするという変わった風習がありました。
 
『後水尾院当時年中行事』には
「まず、いも、次に茄子を供ず。
 なすびをとらせましまして、
 萩のはしにて穴をあけ(中略)
 茄子の穴より御覧じて御願あり、
 これらも専 (もっぱら) 世俗に流布の事也」
と書かれています。
 芋や茄子を供えて収穫を喜び、
 茄子の穴から月を見て願い事をかけ、
 それが民間にも広がっていった
 
これが更に変化して、6月16日の成人儀式の
「月見」となったようです。

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江戸時代の「お月見」

江戸時代に入ると、「お月見」の風習が
更に庶民にも広がっていきました。
農民にとっては、
十五夜」の頃は稲が育ち、
間もなく収穫を迎える時期になることから、
お月様に秋の収穫物を供えて、
名月を観賞しながら
「収穫祭」とか「初穂祭」といった
実りに感謝するようになりました。
 
現在のように、祭壇を作って、
「月見団子」や「薄」(すすき)
用意するようになったのは、
江戸後期になってからということなので、
そういった意味では、
「お月見」は割と新しい歴史だと言えそうです。