うまずたゆまず

コツコツと

お七が火罪に処せられた3月29日は「八百屋お七の日」

 

 
18歳の八百屋の娘・お七(1668~1683)が
3日間の市中引回しの上、
火焙りの極刑(火罪)に処せられたのは
旧暦の天和3(1683)年3月29日のことと
言われています。
 
 

お七火事

天和3(1683)年1月25日、
駒込の大円寺の出火を発端とした大火災、
通称「お七火事」が発生しました。
「お七火事」には諸説あり、
現在のところはっきりしていません。
 
火は強い北西の風に乗って、
本郷から御茶ノ水、神田と南の方角へ延焼。
また神田川を沿うように隅田川まで辿り着くと
対岸の両国や深川まで燃え広がり、
判明しているだけで、
大名屋敷75、旗本屋敷166、寺社95が焼失。
町家の被害に至っては数万戸に及び、
焼死者も約3,500人に及んだと言われています。
あの松尾芭蕉も被災した1人だそうです。
 
そして「お七火事」の3年後の貞享3(1686)年、
井原西鶴の『好色五人女』で紹介されると
広く知られるようになり、
江戸の大火(天和の大火)の悲劇と結びついて
有名になりました。
 

お七の物語

ほぼフィクション
「お七火事」は、
直後の貞享年間(1684~87)に書かれた
作者不詳の 『天和笑委集』(てんなしょういしゅう)
3年後の井原西鶴の『好色五人女』、
国学者・戸田茂睡の見聞録『御当代記』、
74年後の宝暦7(1757)年に講釈師・馬場文耕の
『近世江都著聞集』(きんせいえどちょもんしゅう)
取り上げられています。
 
特に実話を基に書かれた
井原西鶴の『好色五人女』で紹介されると、
以後現代に至るまで、様々な脚色が施され、
既に実話がどこにあるのか
全く定かではなくなってしまいました。
 
天和笑委集(てんなしょういしゅう)
お七が死罪となった翌年から執筆が開始された
『天和笑委集』(作者不明) は全13章からなり、
第1章から第9章はこの時代の火災の記録で、
第10章から第13章は放火犯の記録で、
史実と照らし合わせると極めて信憑性が高いと
言われています。
 
「お七の物語」は第11章から第13章と
全体の1/5を占めていますが、
お七の記録に関してだけは著しい誇張や
潤色(脚色)が入っているとされています。
 
あらすじ
江戸は本郷森川宿 の八百屋市左衛門の子は
男子2人女子1人。
娘お七は小さい頃から賢く、色白の美人で、
両親は身分の高い男と結婚させる事を望んで
いました。
天和2年の師走28日(1683年1月25日)の火事で
八百屋市左衛門は家を失い正仙院に避難。
その正仙院には17歳の美少年・生田庄之介がいて
お七に魅かれた庄之介は、お七の家の下女を
通じて文のやり取りをするようになります。
その後密会を重ねるようになりますが、
正月中旬新宅が出来ると、
お七一家は森川宿に帰ります。
 
帰った後も手紙のやり取りを続け、時には、
庄之介が忍んで来ることもありましたが、
日が経つれお七の思いは強くなり、
遂には病の床に就いてしまいます。
そして3月2日夜風が吹く日、遂にお七は
放火に及びますが、幸いボヤで消し止められ、
お七はその場で御用となりました。
 
奉行所では、
「女の身で誰を恨んで、どのような訳で
 このような恐ろしいことをしたのか?
 正直に白状すれば場合によっては
 命を助けてもよいぞ」と言われましたが
お七は庄之介に迷惑掛けまいと庄之介の名は
一切出さずに、「恐ろしい男達が来て、
火をつけるように脅迫し、断れば害すると
言って打ちつけるので」と答えてしまいます。
細かく尋ねられると要領の得ない話ばかり。
これでは助けることは出来ないと
お七の火あぶり(火罪)が決定されました。
 

 
豪華な振袖で鮮やかな化粧と島田に結い上げ
蒔絵のついた玳瑁の櫛で押えた髪に整えられたお七は、3月18日より一緒に死罪になる6人と
共に晒し者にされ、3月28には痩馬に乗せられ
鈴が森に引き立てられ、大勢の見物人が見守る中で処刑されました。
 
なお七の家族は縁者を頼り甲州で農民となり、
生田庄之介は4月13日夜にまぎれて旅に出て、
終いには高野山の僧になりました。
 
御当代記(ごとうだいき)
『御当代記』(ごとうだいき) は、
同時代を生きた国学者の戸田茂睡 (とだもすい)
延宝8(1680)年から元禄15(1702)年までの
政治や江戸市中の風俗から天変地異などの
見聞記です。
そこには、天和3(1683)年3月20日頃、
「駒込のお七、火付之事、この三月の事にて
 二十日時分よりさらされし也」と、
お七という娘が放火の罪を犯し、
晒し者となっていたと書き記されています。
 
好色五人女
お七が一躍有名となるきっかけとなったのが、
処刑の3年後の貞享3(1686)年刊行の
井原西鶴の浮世草子『好色五人女』の一編
「恋草からげし八百屋物語」です。
 
あらすじ
お七は16。本郷の八百屋八兵衛の娘でした。
ある時、江戸に大火があって、
お七の一家も寺(吉祥寺)に避難しました。
そこへ同じく避難してきた若衆が、
指に刺さった棘を抜いて欲しいとお七の母に
頼みます。
目が悪い母に代わってお七が若衆の棘を抜くと
若衆はお七の手を強く握り、
お七もその手を握り返します。
彼の名は小野川吉三郎。
同い年の16歳の美男子でした。
その後、二人は恋文を交わす間柄となり、
ある夜とうとうお七が吉三郎の部屋に夜這いし
契りを交わし、永遠の愛を誓います。
しかし避難生活が終わり家へ戻ったお七は、
吉三郎と会えずに悶々とした日々を過ごします。
やがて密かに文を交わし、逢瀬を重ねますが、
離れ離れの生活に寂しさは募る一方。
再び火事があればまた会えるのではないかと
お七は遂に自宅に火を放ってしまいます。
火はぼやで消し止められますが、
お七は捕らえられ、御白洲で素直に罪を認め、
当時の放火の定法通り、江戸市中引き回しの上
火あぶりの刑に処されました。
お七の死を知った吉三郎は嘆き悲しんで
自害を図りますが、辛うじて引き留められ、
出家しました。
 
この「恋草からげし八百屋物語」は、
前述の『天和笑委集』を元にしたと考えられ、
天和の大火、寺への避難、小姓との恋、
そして放火・死罪まで、ほとんど同じです。
 
異なる点としては、お七の父の名を
「本郷の八百屋・八兵衛」と付け、
また相手方の名前を
「庄之助」から「吉三郎」とし、
避難した寺も「正仙院」から
駒込の「吉祥寺」と変更しています。
「吉祥寺」は、元々は水道橋にありましたが
明暦3(1657)年の「明暦の大火」の後、
現在の文京区本駒込3丁目に移り、
やがて一帯は岩槻街道に沿う形で
門前町屋として開かれました。
「吉祥寺」には、昭和41(1966)年に
文学愛好者によって建立された
「お七吉三郎比翼塚」があります。
「比翼塚」(ひよくづか) とは、愛し合っていた
(が一緒になることができずに死んだ)
男女の冥福を祈った供養塔のことです。
 
浄瑠璃や歌舞伎などに
その後、「お七の物語」は
お七の恋人が「吉三郎」で、
避難した寺が「吉祥寺」で定着し、
浄瑠璃や歌舞伎などの芝居の題材となり、
現在に至るまで、浮世絵、文楽(人形浄瑠璃)、
日本舞踊、小説、落語や映画、演劇、人形劇、
漫画、歌謡曲など、様々な形で取り上げられて
います。
 
歌舞伎の初演は、宝永3(1706)年正月に、
大坂・嵐三右衛門座で上演された、
紀海音 (きのかいおん) 作『八百屋お七歌祭文』で、
初代・嵐 喜世三郎がお七を演じて大評判となり、
江戸でも演じられました。
この時、喜世三郎が衣装の紋に
「丸に封じ文」を使用し、
それが後世のお七役の衣装の紋になりました。
 
浄瑠璃では、享保2(1717年頃の初演の
こちらも紀海音 (きのかいおん) 作の
『八百屋お七恋緋桜』(やおやおしち こいのひざくら)
が初期の代表的な「お七物」の作品です
 
安永2(1773)年初演の
『伊達娘恋緋鹿子』(だてむすめこいのひがのこ) は、
恋しい吉三に会うため、
お七が火の見櫓 (ひのみやぐら) に登り、
半鐘を鳴らして火事を起こす場面が生まれ
大評判となりました。
現在の文楽(人形浄瑠璃)でも
代表的な演目となっています。
 
文化6(1809)年3月、江戸森田座で初演の
『其往昔恋江戸染』(そのむかしこいのえどぞめ)
現行のお七劇の定型が確立したと言われて
います。
追っ手から隠れるためにお七が欄間に上り、
天人の真似をする「天人お七」という趣向、
そしてお七の着付に
浅葱麻の葉鹿の子の型が作り出され、
お七を演じた5世岩井半四郎は大好評を取り、
後の狂言の欠かさない要素となりました。
 
その他、放火はせず、火の見櫓の太鼓を打ち、
町木戸を聞かせる脚色も途中から定着し、
更にその罪で捕まりますが、
お七の吟味を担当した奉行は
彼女に同情し刑を軽くする為に、
お七に年齢・犯罪の動機について
嘘をつかせようとしますが、
純真なお七は、彼の下心に気がつかず、
あくまでも事実しか言おうとしないため
死罪と決まりますが
(火事でないのに火の見櫓の
 半鐘・太鼓を打つことは重罪)、
引き廻されて鈴ヶ森で処刑の寸前に赦免され、
めでたい結末となっています。
 
他にも、例えば八百屋の娘ではなく
親から「人買い」に売られた子であるとか、
犯した罪も放火ではなく、
やむなく養父を殺したとか、
時代設定が「鎌倉時代の江戸」という、
荒唐無稽な芝居まで登場し、
こうなるとお七の出自や恋人の名前など、
最早『天和笑委集』の原型は僅かしかなく、
しかも放火犯の悪女からヒロインに
昇華してしまっています。
ですがこうしたことにより、
大衆の人気を博していくのでした。
 
近世江都著聞集
(きんせいえどちょもんしゅう)
『近世江都著聞集』は、
お七の死の74年後の宝暦7(1757)年に
講釈師の馬場文耕 (ばばぶんこう) が書いたもので、
かつては『天和笑委集』と並び立つ文献史料と
されていました。
 
この『近世江都著聞集』に、放火の罪を減免し
お七を極刑から救おうとする
情深い奉行が登場し、
長い間、実話と考えられてきました。
 

 
馬場文耕は、奉行がお七16歳と知りながら、
敢えて「14歳か?」と問いただし、
それに対してお七はお宮参りの札まで見せて
「16歳」と答えたたと記し、これは
「お七を裁いた奉行の日記を元家臣から
 見せられた」、つまり真実だと主張しました。
 
ですが、放火犯が15歳以下だった場合に
死を免じるとされたのは享保8(1723)年以降で、
お七の時代にそのような規定はなく、
更に、お七の裁判を担当した奉行を
中山勘解由としていますが、事件当時は、
勘解由は火付改加役(後の火付盗賊改)で、
奉行ではありませんでした。
 
更に、お七の罪を人道的配慮から減免せよと
勘解由に指示したのが、
老中の土井利勝だったと書いていますが、
利勝はお七事件の40年近く前の
寛永21(1644)年には亡くなっています。
 
残念ですが、お奉行様の人情話は、
全くのフィクションだったのです。
 

お七の生まれは
「丙午」ではない

 
実はお七最大のフィクションは
「丙午」(ひのえうま) 伝説です。
 
午年生まれの中でも
特に「丙午」(ひのえうま) 年生まれの女性は
気性が激しく夫の命を縮める」と言われ、
明治39(1906)年生まれは前年より4%、
昭和41(1966)年は前年より25%も
出生率が下がりました。
 
これは「お七が丙午年生まれだ!」
ということから来てるようですが、
実はお七の生まれは「丙午」ではないんです。
 
これは、炎の中で半鐘を鳴らす姿を
一層強烈にするために、
人形浄瑠璃の脚色の中から生まれた設定で、
この設定のために生まれた
全くの俗信だったのです。
 

東京に残る
「お七ゆかりの地」

東京都内には、
お七ゆかりの地がいくつかあります。
 
お七の井戸
目黒区にある「お七の井戸」は
お七本人が使った訳ではなく、
恋人である吉三郎が出家し西運となり、
お七の供養をする際に
この井戸の水で身を清めたとされている
場所です。
 
明王院跡・目黒雅叙園
西運は、お七の菩提を弔うため
念仏堂「明王院」を建てたと伝わっています。
「明王院」は、明治時代に廃寺となり、
跡地には現在、目黒雅叙園が建っていますが、
その入り口付近に「お七の井戸」が
残されています。
 
西運はお七のために、
目黒不動尊と浅草観音の間の往復約40kmを、
1万日(約27.4年)日参するという悲願を立て
成就するのですが、
出発前に水垢離をとっていたのが
この井戸だと伝わっています。
 
更に西運の道すがら得た浄財で、
雅叙園横に掛かる太鼓橋を作ったとも
言われています。
この橋、今は普通のコンクリートの橋ですが、
歌川広重の「江戸名所百景」にも描かれている
名勝として知られています。
 
松林山・大圓寺
現在は隣接している松林山・大圓寺に
お七地蔵ともども西運が祀られています。
 
天台宗・円乗寺
「八百屋お七の墓」
江戸観音11番札所としても知られる
文京区にあるう天台宗・円乗寺には
「八百屋お七の墓」があります。
 
この「八百屋お七の墓」は
元々は天和3(1683)年に亡くなった
法名妙栄禅尼という女性のお墓でしたが、
後にお七役で絶大な人気を博した
歌舞伎役者の五代目・岩井半四郎が
「お七の墓」として墓石を追加したと
言われています。
 
千葉県八千代市の長妙寺
「八百屋お七の墓」
伝わる墓も千葉県八千代市の長妙寺にある。
 
千葉県八千代市にある
日蓮宗の長妙寺 (ちょうみょうじ) にも、
「八百屋お七の墓」として伝わっている
墓があります。
ここは、お七の母が娘の遺骨をもらい受け、
埋葬したと言われている墓です。
墓には、「妙栄信女 天和午戊三月二十九日」と
刻まれています。