うまずたゆまず

コツコツと

江戸時代に始まった庶民の旅

 

江戸時代になると、
戦国の世が終わりを告げ、
「五街道」や「宿場町」の整備が
進んだことなどから、
庶民の間で旅行が爆発的なブームと
なりました。
 
 
特に「伊勢参り」は
「一生に一度」の憧れとして大流行し、
最盛期には人口の6分の1(約数百万規模)が
参拝したとされる一大イベントでした。
 
 

交通網の整備

江戸時代、東海道などの「五街道」や
それを補完する「脇街道(脇往還)」、
「宿場町」などが整備されたことで、
庶民も安心して長距離を移動出来るように
なりました。
 
五街道
 
「五街道」(ごかいどう) とは、江戸から延びる
「東海道」「中山道」「甲州街道 (甲州道中)」
「日光街道 (日光道中)」「奥州街道 (奥州道中)」です。
 
 
慶長6(1601)年に徳川家康が
江戸幕府の全国統制のために整備を開始し、
2代将軍秀忠の代になって、
慶長9(1604)年に江戸の起点を「日本橋」定め、
「東海道」を皮切りに、
順次整備が進められました。
「五街道」を幕府直轄とし、
街道の要所に「関所」を置き、
一里 (約4km) 毎に一里塚を築き、
街道沿いに銀杏並木を植えることを
命じました。
 
・日光街道(日光道中)
 寛永13(1636)年頃完成。
 日本橋から日光までの二十一次。
・奥州街道(奥州道中)
 正保3(1646)年完成。
 日本橋から陸奥・白河までの二十七次。
・中山道(中仙道)
 元禄7(1694)年)完成。
 日本橋から草津までの六十七次。
 草津・大津の2宿を加え京都までの六十九次とも。
・甲州街道(甲州道中)
 明和9(1772)年)完成。
 日本橋から下諏訪で中山道に合流する四十三次。
 
脇街道(脇往還)
幕府が定めた「五街道」の本街道以外の
脇路のことです。
「五街道」から直接延長・分岐する街道など
重要な地方道や幹線道路のことで、
主に地域や城下町を結ぶ役割を果たしました。
「五街道」に比べ通行が厳しくなかったので、
女性や一般の旅人に好まれました。
 
 
東海道の熱田と中山道の垂井を結ぶ「美濃路」、
中山道の関ヶ原から加賀国に至る「北国路」、
大阪から九州小倉に至る「中国路」、
小倉から長崎までの「長崎道」などが
有名です。
 
 
「脇街道(脇往還)」は
勘定奉行の管轄下にありましたが、
その支配は間接的なもので、
管理や運用は各藩などに任されていました。
 
宿駅伝馬制度


「宿駅」とは元々街道沿いにあった
旅人を泊めたり、荷物を運ぶための人や馬を
集めておいた宿場のことで、
「伝馬」とは、幕府や大名が
公用の書状や荷物を運ぶために、
「宿駅」に常備させた馬のことです。
 
徳川家康は「関ヶ原の戦い」に勝利すると、
全国の街道の整備を始めますが、
その皮切りとして慶長6(1601)年に東海道に
「宿駅伝馬制度」(しゅくえきてんませいど)
敷きました。
「五街道」などの街道沿いに「宿駅」を置き、
公用の書状や荷物を馬や人足で
リレー形式(継ぎ送り)に運ぶ制度です。
 
 
「五街道」などの街道整備に伴い、
「宿駅」を中心に「宿場町」が生まれ、
「参勤交代」の義務化により
「宿場町」は飛躍的に発展しました。
本陣・旅籠などの宿泊施設や問屋場が整備され
商人・職人が定住したことで
街道の拠点として活況を呈しました。
 
行商人、武士、旅僧、御師 (おし) 、旅芸人等々、
実に多様な旅人達の往来によって
口から口へと伝えられる情報は、
各地の宿から助郷や人足を通じて
村へと伝わるようになり、
街道は常に新しい情報源の役割も果たしました。
 
往来手形
江戸時代は庶民が居住地を離れるには
許可が必要でした。
そのため、旅に出掛けるためには、
現代で言えば「パスポート」の役割を果たす
「往来手形」(おうらいてがた) が必需品でした。
 
「往来手形」は、その村の庄屋か檀那寺が
発行した「身分証明書」兼「通行許可証」で、
所持者の氏名・住所・宗旨(宗派)、
旅行目的(参詣・商用)が記載され、
往路・帰路の関所通行許可、道中での安全保障と
死亡時の取り扱いを依頼した文言が
書き記された証文です。
女性の場合は、「往来手形」の他にも
「女手形」という
女性の関所通過に特化した関所手形が
必要でした。
 
江戸方面から関所を通って西へ向かう女性を
「出女」と呼びますが、
江戸幕府は出女を非常に厳しく臨検しました。
謀反を企む大名の妻子などが
密かに逃亡してくる可能性があるからです。
 
この「女手形」は、
江戸時代の元和期 (1615-24)には
既に存在していたことが判っています。
 

「寺社参詣」から
「物見遊山」へ

「寺社参詣」と「湯治」


江戸時代、幕府は原則として、
庶民が自由に旅に出掛けることは
認めていませんでしたが、
例外が2つだけありました。
信仰のための「寺社参詣」と、
そして病気療養のための「湯治」です。
 
「寺社参詣」や「湯治」を目的にすれば
許可が得やすかったため、
商人や町人、更に農民までもが
それらを目的に旅へと出向きました。
 
 
特に「お伊勢参り」は、
庶民にとって「一生に一度は行きたい」と願う
まさに夢の旅夢の旅行であり、
数十年毎に数百万人が押し寄せる
一大ブームとなりました。
参詣の対象となった寺社は、伊勢神宮の他に
善光寺・金比羅宮・出雲大社など
全国から参詣者の集まる霊場や、
出羽三山・熊野三山・長谷観音・石山寺・成田山
など信仰者の区域がやや限られている所、
富士山・御岳山・月山・白山・大峰山・石槌山等
夏のみ登拝の行われる山岳信仰、
西国三十三所・四国八十八所・秩父三十三所等特定の霊場を順次参詣する風習も
一般化していきました。
ただ江戸の人は浅草観音や成田不動、
京都の人は清水観音や伏見稲荷、
大坂の人は四天王寺や野崎観音というように
近隣の寺社へ参詣するのが最も多かった。
 
「参詣講」の結成
 
伊勢参宮のように遠隔地への参詣は
費用も多分に掛かるので、
1人での参拝は困難でした。
そうしたことから、
多くの庶民は「講」(こう) を組織し、
費用をみんなで積立て、
順番制で参詣地に向かうといった仕組みを
作り上げました。
「講」とは、
宗教信仰者の組織する団体のことで、
著名な神社仏閣へ参る「伊勢講」「善光寺講」
「鹿島講」「香取講」「弥彦講」「成田講」
「氷川講」「熊野講」「熱田講」「天神講」
「厳島講」「住吉講」「宇佐講」「太宰府講」
「富士講」「秋葉講」「大師講 (川崎大師)」
などの「参詣講」が各地に結成されました。
 
代参者は毎年くじなどで選ばれて派遣され、
講員の数だけの祈禱札などを受け取って帰り、
講員に配りました。
 
物見遊山
当初は「寺社参詣」を目的に旅に出ましたが、
次第に「寺社参詣」に
「物見遊山」が伴う旅が多くなります。
文化文政の頃(19世紀初頭)になると
「寺社参詣」を口実に
名所旧跡めぐりや芝居見物、湯湯治、
土産の購入などを加えた、
今日の娯楽的な旅の様相に近いものと
なりました。
「物見遊山」(ものみゆさん)とは、
見学する、物事を見に行くという意味の
「物見」(ものみ) と、
仏教に由来する言葉で、
寺に出掛けるという意味の「遊山」(ゆさん)
二つの言葉が合わさってできた言葉です。
 
近郊での行楽
 
庶民の楽しみは遠方への旅行だけでなく、
「花見」「夕涼み」など
市中や近郊での行楽へと広がって行きます。
 
江戸は徳川家康が入府してから作られた
新しい都市のため、
伝統的な名所はあまりありませんでしたが、
都市の発展に伴い、次々と名所が生まれ、
一大観光都市となりました。

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案内記の出版

庶民の旅や行楽が盛んになったことで、
明暦年間(1655-58)頃からは、
今日の観光ガイドブックのような
旅人のために様々な案内記が
次々と出版されて人気となりました。
こうして名所は全国的に広まり、
定着していきました。
 
道中記
「道中記」(どうちゅうき) には、
日本全図に街道が記され、
旅路の宿駅・距離・駄賃・関所・
川の渡り方などの実際の旅に役立つ
基本情報が載った出版物で、
持ち歩きが出来るように小型化され、
折本形式の懐中用の形をしていました。
 
 
江戸時代の
文化7(1810)年に八隅蘆庵 (やすみろあん) が著した
『旅行用心集』(りょこうようじんしゅう) は、
荷物の減らし方、温泉の効能、船酔い対策、
防犯など、実用的な知恵を記した、
庶民向けの旅の心得・ハウツー本で、
当時、ベストセラーにもなりました。
 
名所図会
 
江戸時代後期になり、庶民が旅を
「物見遊山」として捉えるようになると
名所案内としての性格を持つ刊行物が
多数出版されるようになります。
 
「名所図会」(めいしょずえ) は、
各地の景勝地・神社仏閣・名所旧跡を
鑑賞にも堪える写実的な挿し絵と豊富な挿絵と
考証に裏付けられた詳細な解説で紹介した
新しいタイプの旅行ガイドブックでした。
 
 
安永9(1780)年に秋里籬島 (りとう) が手掛けた
京の都を紹介した『都名所図会』(6巻6冊) は
代表的な寺院や地形などのランドマークに加え、
隠れた名所や伝説についても取り上げて
解説を施したことから、
旅に憧れる人々の広い支持を受け、
爆発的な売れ行きを見せました。
これが先駆けとなって、以後、
『摂津名所図会』『東海道名所図会』
『江戸名所図会』などの名所図会が
様々な著者や絵師により次々と出版されました。
 
 
これら「名所図会」は大書であり、
旅の携帯案内道中に持参するには不向きで、
普段、机上において、
旅行前に見所を調べたり、
読み物として読んだりするといった
「観光名所のビジュアル百科事典」のような
役割を果たしていました。
 
紀行文
 
「紀行文」とは、旅行の行程に沿って、
体験、見聞、感想を記した
現代で言う旅行記、トラベルライティング、
エッセイのことです。
松尾芭蕉の『おくのほそ道』が代表的で、
本居宣長『菅笠日記』、貝原益軒『大和廻』
賀茂真淵『岡部日記』、
滝沢馬琴『四輪旅漫録』など、
多くの紀行文が見られるようになりました。
 
滑稽紀行文学の流行
 
案内記や旅日記が出現する以前にも、
仮名や仮名混じり文で書かれた、
庶民向けの文学「仮名草子」が
名所案内やガイドブックの役割を
果たしたようです。
 
江戸後期になると、庶民の旅ブームを背景に、
笑いや滑稽味を交えて旅の様子を描いた
娯楽作品の「滑稽紀行文学」が人気しました。
 
従来の真面目な紀行文とは異なり、
道中での失敗談、人情の機微、
庶民の滑稽なやり取りなどを
面白おかしく描いたもので、
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や
仮名垣魯文の『滑稽富士詣』が
その代表格です。
 
名所絵
 
日本絵画ではそれまで、
遠近法はほとんど用いられませんでしたが、
8代将軍徳川吉宗が禁書令を緩和して、
キリスト教に関係のない書物の輸入を
認めたことをきっかけに、
遠近法を取り入れた風景を描けるようになり、
また錦絵の技術が普及したことで、
「名所絵 (風景画)」は、
「役者絵」「美人絵」と並ぶ
錦絵の主要ジャンルの1つとなりました。
人々の旅や行楽への欲求を背景に、
北斎の『富嶽三十六景』や
歌川広重の『東海道五拾三次』は
大ヒットとなります。
 
 
庶民の旅が盛んになったとはいえ、
それでも一生に一度行けるかどうかという
時代であったため、
手軽に旅行気分を味わえる「名所絵」は
人々にとっての大きな楽しみでした。
 
 
人々は「名所絵」を眺めては、
まだ見ぬ土地に思いを馳せ、
あるいはかつての旅の思い出に浸っていた
のではないでしょうか。
 

明治以降

 
明治に入ると、関所が廃止され、
庶民は自由に国内を旅行出来るように
なりました。
更に鉄道の発達とともに鉄道旅行が普及、
旅行団体が組織化されたり
旅行雑誌などが登場したことから、
旅行文化の大衆化を促していきました。
 
戦後は、高度経済成長、
高速交通網の整備進展、
モータリゼーションの発達などにより
旅行は国民の生活に根づき、
旅行に求めるものやそのスタイルは
より多様化し今日に至っています。