うまずたゆまず

コツコツと

江戸の二大レジャーのひとつ「潮干狩り」

 
江戸時代、かつての東京湾には、
九州の有明海に匹敵するような
広大な干潟地帯が見られました。
 
江戸の町はこの干潟地帯を埋め立てる
「干拓」をすることによって
市街地が海側へと拡大されて発達しました。
特に明治期以降は、品川沖・深川沖の干潟が
大規模に埋め立てられて、
東京湾の干潟は失われました。
 
ただ江戸時代には、
品川沖・深川沖には干潟が残っていたので、
春から初夏にかけて、特に春の大潮の頃には
海岸線が大規模に引いたので、
庶民だけでなく、武士達もこぞって
「潮干狩り」(しおひがり) に出掛けました。
なお江戸時代には「潮干狩り」ではなく、
「汐干狩」「汐干」(しおひ) と書きました。
 
 
 
江戸や近郊の年中行事を月別にまとめ、
解説した『東都歳事記』(1838年刊)には、
「汐干 当月より四月に至る。
 其内三月三日を節 (ほどよし) とす」と、
「潮干狩り」のシーズンは3月から4月で、
中でも3月3日 (旧暦) はベストタイミングと
記されています。
 
この時期は、1年のうちで
一番干満の差が大きくなるいわゆる
「大潮」の時期に当たります。
因みに秋にも「大潮」がやって来ますが、
この頃は潮が引くのが「深夜」なので、
潮が引くのが日中になる
「春」のシーズンの到来とともに
目の前に広がる干潟の海に
「潮干狩り」に出掛けました。
 
江戸時代は、羽田から品川、
深川洲崎 (ふかがわすさき) にかけて
浅瀬の海岸が広がっていました。
『東都歳事記』には
江戸の「潮干狩り」の名所として、
芝浦、高輪、品川、佃島、深川州崎、
中川などが紹介されています。
このうち「品川」と「深川洲崎」は
風景も良かったため、特に有名でした。
 
 
『東都歳時記』には、「潮干狩り」について
次のように書かれています。
 卯の刻過ぎより引き始めて
 午の半刻には海底陸地と変ず、
 ここに降り立ちて、
 蠣蛤を拾い、砂中の平目をふみ、
 引き残りたる浅汐に小魚を得て
 宴を催せり
 
潮が引き始める卯の刻(午前6時)過ぎに
舟に乗って沖に出て、
午の刻(正午頃)、
海底が陸地になったら船から降りて、
そこから「潮干狩り」がスタート。
浅蜊 (あさり)、蛤 (はまぐり) などを
1日がかりで拾いました。
時には砂の中から平目や小魚も採って、
その場で調理して、宴を催しました。
 
江戸時代の俳諧師の宝井其角 (きかく) は、
「親にらむ 平目を踏まん 汐干かな」という
歌を残しています。
潮干狩りに興じているうちに、気づかずに
平目を踏んでしまったという俳句です。
平目は当時、そのくらい身近にいるもの
だったのです。
 
そして「潮干狩り」で採れた魚貝は
持ち帰って食べました。
自分達で食べきれない分は
近所へお裾分けしたついでに
「潮干狩りで楽しんだ」という自慢話に
花を咲かせたそうです。
当時の「潮干狩り」は、
採って食べるだけではありません。
干潟の側には茶屋などが立ち、
飲食を楽しみつつ、
潮風に吹かれながら海を眺めたり、
潮干狩りの様子を観ることも楽しみました。
 
 
裕福な者は釣り船や屋形船の上で
採ったばかりの貝や魚を船頭に調理させて、
その場で酒の肴にして酒宴を行い、
時には芸者衆を舟に乗せて賑やかに楽しんだ
旦那衆もいたようです。
 
 
 
ところで「江戸」と「上方」(かみがた) では
採れる貝の種類に違いがあったようです。
 
 
大坂では、最も多いのは「蛤」(はまぐり)
次が「蜆」(しじみ) 類で、
「浅蜊」(あさり) は採れなかったようです。
 
 
『和漢三才図会』(1712)には
「あさりは各地どこにでもいるが、
 摂州(摂津国・現在の大阪府の一部と
 兵庫県の一部)、泉州(和泉国・大阪府南部)、
 播州(播磨国・兵庫県西南部)には
 稀にしかいない。」
と記されています。
 
『年中番菜録』(1849)でも、
「(浅蜊は)大坂にはまれなり。
 播磨辺より来る味よし。
 大ていはまぐり同やうにて風雅なるものなり。
 紀州よりきたるは味うすし」。
 
 
安政から文久年間(1856-1863)にかけての
大坂の風俗を記した
『浪華の風』の貝類の記述の中でも
「あさり、ばか(ばか貝)の
 むき身などいうもの絶てなし」
となっています。
 
 
『守貞謾稿』(1853)巻の六にも、京坂には
「蛤はこれあり、あさり、ばか、さるぼう
 これなし。鳥貝、赤貝等、三都これあり」
となっています。