
豊国神社例祭 献茶祭
豊臣秀吉を祀る「豊国神社」の例祭は、
秀吉の命日(旧暦・慶長3(1598)年8月18日)に
開催される「豊国神社」で一番重要なお祭です。
例祭
18日は、招待者のみが参加出来る
「例祭」が執り行われた後、
舞楽「蘭陵王」(らんりょうおう) や巫女の神楽舞が
奉納されます。
この舞楽奉納は、
伏見城の遺構・唐門の下にある
賽銭箱の前から見ることが出来ます。
献茶祭
そして翌19日には、
明治時代から行われている「献茶祭」が
薮内流 (やぶのうちりゅう) 宗家家元により行われ、
秀吉の正室・北政所を祀る
摂社・貞照神社 (さだてるじんじゃ) に
濃茶・薄茶が奉献されます。
藪内流 (やぶうちりゅう) は、千利休と共に
武野紹鷗 (たけのじょうおう) の弟子であった
藪内剣仲 (けんちゅう) が始めたお茶の流派です。
千利休の侘び茶と古田織部の武家茶の要素を
調和させた、大ぶりで堂々とした所作に
特徴のある独自の茶風を確立しました。
上京区にある「三千家」
(武者小路千家・表千家・裏千家)を
「上流」(かみりゅう) というのに対して、
下京区にある本願寺に仕えた藪内流を
「下流」(しもりゅう) と呼ぶこともあります。
この祭典が終わると、
境内にある豊国神社茶室「豊秀舎」と書院に
お茶席が設けられます。
こちらは予約制で、一般の方の参加が可能です。
・日程:令和7(2025)年9月18日・19日
・例 祭:18日11:00~
・献茶祭:19日10:30~
・料金:境内無料、宝物館500円
・場所:豊国神社
豊国さんのおもしろ市
また毎月18日に行われている、
手作り品、リサイクル品など30~50店が出店する
フリーマーケット「豊国さんのおもしろ市」も
開催されます。
豊臣秀吉の死
太閤忌
慶長3(1598)年8月18日(旧暦)、
天下統一の偉業を果たした豊臣秀吉は
伏見城において、その波乱に満ちた生涯を
終えられました。享年61歳でした。
「露と落ち 露と消えにし 我が身かな
浪速のことは 夢のまた夢」
(私の身は露のように儚く消えた、大阪での栄華も夢のようだった)
という辞世の句を残したとされています。
なお8月18日は、豊臣秀吉の命日であることから
「太閤忌」(たいこうき) と呼ばれています。
秀吉の死因
体調を崩した秀吉は、慶長3(1598)年5月には
病床に伏すようになりました。
そのたった2ヶ月前には、
「醍醐の花見」を催したばかりでしたのに。
朝廷では、秀吉の病が平癒することを祈願して
神楽を催したそうです。
有馬の湯に湯治に出掛けてもみましたが、
その時には既に、自力で浴室まで歩くことが
出来ないような状態だったようです。
その後、食欲は衰え、筋肉量も落ちて
みるみる衰弱していったと伝わっています。
下痢や腹痛、そして手足の痛みもあり、
その後、錯乱状態になったとか、
失禁したとかいう記述まであるそうです。
秀吉は、五大老や五奉行を度々呼び出しては、
当時まだ6歳であった秀頼のことを託したと
言います。
更に臨終に際しては、自身が所有していた
茶器、名画、名刀、黄金を多くの人々、
取り分け、有力な家康や利家には厚く、
下々の者にまで贈ったと言われています。
そして8月18日(旧暦)、亡くなりました。
胃癌もしくは大腸癌説、赤痢説、尿毒症説、
神経梅毒説、脚気説、感冒説から毒殺説まで様々な死因が推定されていますが、
未だ確定はしていません。
豊国神社
創建
秀吉が亡くなった翌年の慶長4(1599)年、
その御遺骸は遺命により
東山の阿弥陀ヶ峯の山頂に葬られました。
そしてその中腹に秀吉を神様として祀る神社
「豊国神社」が創建されました。
朝廷からは正一位の神階と
「豊国大明神」の御神号を賜り、
盛大な鎮座祭も行われたのだそうです。
そして毎年4月と8月に行われた「豊国祭」には
朝廷より勅使が遣わされ、
特に慶長9(1604)年の秀吉公七回忌に斎行された
「豊国大明神臨時祭」は、北政所を始め
豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次ぎ、
空前絶後の大祭礼であったと
諸記録に伝えられています。
豊臣家滅亡後
慶長20(1615)年、大坂夏の陣において
豊臣家が滅亡すると、
「豊国神社」は徳川家康により廃祀され、
「方広寺」(ほうこうじ) に霊は遷されました。
「方広寺」(ほうこうじ) は、
大坂冬・夏の陣を引き起こした「鐘銘事件」と
秀吉により文禄2(1593)年に造られた大仏
「京の大仏さん」で有名です。
大仏は落雷により焼失してしまいました。
「京の大仏さん」は、秀吉が奈良の大仏に倣って造営を命じたもので、その大きさは
奈良の大仏(約14m)よりも大きいなんと
6丈(約18m)でした。
社殿はそのまま放置され、
朽ちるに任せた状態になってしまい、
神社への参道の真ん中には、
別のところにあった神社(現・新日吉神宮)を
わざわざ移設して塞ぎ、
参拝出来ない状態にしてしまいました。
再建
その後、時は流れて明治元(1868)年、
明治天皇の御沙汰により再興が決定。
明治天皇は秀吉を「天下統一を果たしたが、
幕府を作らず天皇を尊重した人物」として
再評価したのです。
同6(1873)年、別格官弊社に列し、
同13(1880)年には、方広寺大仏殿跡地に
社殿が造営され名実共に再興されました。
境内には伏見城の遺構と伝えられる
国宝の「唐門」が聳え、
北政所を祀る「貞照神社」(さだてるじんじゃ) や、
秀吉公ゆかりの遺品・豊国社の社宝を収蔵する
「宝物館」などもがあり、
現在、「豊国神社」は、出世開運の神様として
全国より崇敬を集めています。
国宝「唐門」
豊国神社のシンボル「唐門」は、
西本願寺や大徳寺の門と並び、
「国宝三唐門」に数えられる
桃山時代の作という貴重なものです。
かつては秀吉の居城のひとつ、
伏見城の城門だったと伝えられています。
伏見城が廃された後は二条城に移され、
更に南禅寺の塔頭・金地院、
そして明治に入ってから「豊国神社」に
移築されました。
扉には「立身出世」を意味する
「鯉の滝登り」の彫刻があり、
この門を潜ると出世出来ると言われています。
ですが、通常行けるのは門の前まで。
御祈祷の時か、正月三が日は
潜れるそうですので、
御利益にあやかりたい方はその際にどうぞ!
宝物殿
境内の奥にある「宝物館」は、
大正14(1925)年に開館した桃山造風の建物で、
当時は大変珍しかったコンクリート製で、
展示ケースのガラスもその当時のものだ
そうです。
秀吉や豊臣家ゆかりの資料である
重要文化財の「豊国祭礼図屏風」や
辻与二郞作「鉄燈籠」、
「献茶祭」で使われる茶道具などが
展示・所蔵されています。
「豊国祭礼図屏風」は、
慶長9(1604)年の秀吉7回忌・
豊国大明神臨時祭を描いたものです。
豊秀舎
「献茶祭」の後、社務所内庭園の奥にある
茶室「豊秀舎」で茶席が設けられます。
「豊秀舎」の広間には飛雲閣の写し、
次の間は「残月亭」写し、
更に三畳台目の小間という
秀吉に似合った豪華な茶室です。
通常は非公開ですが、
9/19の藪内家の「献茶式」でのお茶会や、
秋に開催される「太閤まつり」でのお茶会や
文化講座で利用されることがあります。
この茶室「豊秀舎」は、藪内流の茶人、
野村得庵 (のむらとくあん) が寄贈したものです。
野村得庵は、野村財閥(野村證券を中核とする野村グループ)の創始者で、
一代で野村財閥を築き上げた大実業家の
二代目・野村徳七のことです。
野村徳七は、得庵 (とくあん) と号し、
茶の湯は「藪内流」、能は「観世流」を嗜む、
近代数寄者の一人で、
そのコレクションは京都にある野村美術館で
公開されています。
明治11(1878)年8月7日に大阪に生まれた
野村徳七(幼名信之助)は、
27歳で家業である両替商を継ぎ、
証券業を始めます。
日露戦争後の株式相場で巨利を得た後、
大正7(1918)年大阪野村銀行
(後の野村銀行、大和銀行)を設立し、
本格的に金融業に乗り出しました。
大正14(1925)年には、大阪野村銀行の証券部を
「野村証券」として分離独立。
証券業以外にも、
保険、紡績、南洋開発などに事業を拡大し、
持株会社・野村合名を頂点とする
「野村財閥」を形成しました。
昭和3(1928)年からは帝国議会の
貴族院議員としても活躍し、
日仏文化協会設立に尽力した功績により
フランス政府よりレジオンドヌール勲章を
授与されています。
このように精力的に事業を展開する一方、
得庵と号して、茶の湯や能楽に傾倒し、
近代数寄者としても名を馳せました。
大正13(1924)年11月、豊国神社で
寄進した茶室のお披露目の
「豊秀舎・新席披露茶会」を行いました。
昭和20(1945)年1月15日死去。享年66歳。