東山の「鳥辺野」(とりべの) 、
洛北の「蓮台野」(れんだいの) と並ぶ
平安時代以来の墓地であり、
風葬の地として知られる 「化野」(あだしの) にある
「化野念仏寺」(あだしのねんぶつじ) では、
例年8月の最終土曜日・日曜日に、
蝋燭を灯して数千の無縁仏に供養する
「千灯供養」(せんとうくよう) が行われます。
令和6(2024)年8月24日 [土]・25日 [日] です。
「千灯供養」(せんとうくよう) は、
毎年 「地蔵盆」 (じぞうぼん) の夕刻から行われます。先ず地蔵堂前で法要が行われ、
その後、賽の河原に模した「西院の河原」に
祀られている数千体の無縁仏(石塔・石仏)に
ロウソクを灯して供養します。
20年程前からは、
「千灯供養」と地域の「地蔵盆」に合わせて、
「愛宕古道街道灯し」(あたごふるみちかいどうとぼし)
が開催されています。
愛宕神社一の鳥居から祇王寺辺りまで
地元の小中高校生達が描いた800個もの行灯が
通り沿いの家々の軒先や軒下に灯され、
古き良き街並みを優しい灯りが包み込みます。
ところで「化野念仏寺」(あだしのねんぶつじ) は、
真言宗の開祖である弘法大師(空海)が
野ざらしになっていた遺骸を埋葬したのが
起源と言われています。
鎌倉時代初期、浄土宗の開祖・法然上人が
念仏道場を開き、真言宗から浄土宗に改め、
名称も「念仏寺」に改めたと言われています。
明治36(1903)年頃、
化野の山野に散乱埋没していた
無縁仏が掘り出され、
境内に集められた約8千体の石仏・石塔は、
賽の河原に模して名付けられた
「西院の河原」に祀られました。
賽の河原(さいのかわら)
此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける
三途川 (さんずのかわ) の畔ある河原のことで、
親に先立ち亡くなった子供が集まるとされて
います。
ここで子供は両親のために祈り、
自らの成仏も願って
河原の石で仏塔を造りますが、
完成間近になると必ず地獄の鬼に倒され
やり直しになります。
それでもただ一心に石を積み上げるという
苦しみを負っています。
賽の河原の子供達は、
願いが聞き届けられ地蔵菩薩が訪れた時、
ようやくその苦しみから解放されます。
この信仰は、「親より先に死ぬことは重罪」と考えていた当時の日本文化をよく反映して
います。
また、願うことによって最後には救われるという点にも、仏教の特徴が表れています。
そして明治時代の中頃から、
毎月の行事として
「千灯供養」(せんとうくよう) が始まりました。
第二次世界大戦によって一時中断されましたが
昭和25(1950)年には復活して、
年一度の行事となりました。