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年に3回(5/28、8/1、8/7)もある「花火の日」

 
「花火の日」は、
5月28日、8月1日、8月7日の
年に3回もあります。
 
 

5月28日の由来は
「両国の川開き」

 
8代将軍・徳川吉宗の時代、
享保17(1732)年、西日本一帯では
イナゴが大発生し全国的な凶作となりました。
更に「享保の大飢饉」が発生した上、
市中でもコロリ(コレラ)が大流行して
多くの死者が出しました。
 
そこで吉宗は、犠牲者の慰霊と悪疫退散を願い
翌亨保18(1733)年の5月28日に、
隅田川で「水神祭」を行います。
その際、両国辺りの茶屋が慰霊のために
「川施餓鬼」(かわせがき) を行い、
余興として花火を上げました。
「施餓鬼」(せがき) とは、
お盆の時期に行われる仏教行事の一つで、
餓鬼道に堕ちて苦しんでいる霊に
食べ物や飲み物を施し、供養するものです。
無縁仏や供養されない死者も対象となります。
そして、川で行なう施餓鬼供養を
「川施餓鬼」(かわせがき) と言います。
多くは川に漕ぎ出し、塔婆を水中に立て、
あるいは経木、紙などに死者の法名を記し、
河中に投げるなどして回向します。

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この「両国川開きの花火」が
「花火の日」の由来です。
 
それ以降、隅田川では「川開き」の初日に
花火を打ち上げるのが恒例となり、
納涼期間を「川開き」の旧暦の5月28日から
「川じまい」の8月26日まで
随時花火が打ち上げられるようになりました。
そしてこの納涼期間中、
川べりには食べ物屋、見世物小屋等が出来て、
夜半まで賑わいました。
 
 
そしてこの「川開きの花火」が
現在の「隅田川花火大会」へと引き継がれて
いきました。
 

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8月1日の由来には
「4つの説」がある

花火の解禁日説
一つ目は、終戦後、GHQに禁止されていた
「花火製造」と「販売」が
昭和23(1948)年8月1日に、限定的ですが、
解禁されたことに由来します。
 
火薬の使用を禁止していたGHQですが、
特別な日に日本の花火職人に
基地で花火を打ち揚げさせていたようで、
日本の花火に魅了されていたGHQが
花火業者の訴えに耳を貸して、
解禁が実現したと言われています。
 
「両国川開き大花火」再開日説
二つ目は、GHQの花火解禁に伴い、
同日から「両国川開き大花火」が再開した
ことに由来します。
 
墨田区花火問屋爆発事故説
昭和30(1955)年の8月1日午後1時頃、
東京墨田区厩橋 (うまやばし) にあった
玩具用花火の卸問屋の花火工場の花火倉庫で
大規模な爆発事故が起きました。
 
これにより付近一帯が吹き飛び、
半径数十mの民家や商店など
合計13棟・385坪が全焼した他、
半径300m以内の多くの民家で窓ガラスが割れたり屋根瓦が割れるなど被害が出、
死者18名(うち16名は即死)、
80名以上の重軽傷者を出しました。
 
「教祖祭PL花火芸術」開催日説
 
「教祖祭PL花火芸術」とは、
昭和28(1953)年から令和元(2019)年までの間、
パーフェクトリバティー教団 (PL教団) の祭礼で
開催されていた日本有数の巨大花火大会で、
これに由来とされています。
 
「私が死ななければ、
 この教えは世に広まらない。
 私が死んだら、
 花火を打ち上げて祝ってくれ」との
PL教団の初代教祖・御木 徳一 (みき とくはる)
生前のお言葉により、
第二代教祖・御木 徳近 (みき とくちか)
昭和28(1953)年から始められたものですが、
新型コロナの流行により
66年続いたこの大会も令和2(2020)年以降は、
開催されていません。
 

8月7日の由来は
「ハ(8)ナ(7)ビ(日)」の
語呂合わせ

 
8月7日は「おもちゃ花火の日」です。
公益社団法人「日本煙火協会」が
世界に誇る日本の芸術文化のひとつ「花火」、
その中でも手軽に楽しめる「おもちゃ花火」を
もっと多くの人に遊んでもらうとともに、
マナーの向上を図ることを目的に
平成29(2017)年に制定しました。
日付は、8月7日で「ハ(8)ナ(7)ビ(日)」と
読む語呂合わせから。
 

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