金銭的余裕のない長屋の住民にとっては、
手が届かない・・・という訳ではなく、
長屋の住民も正月には餅を食べていました。
長屋の大家さんが、毎年恒例で、
「店子」(たなこ) に餅を振る舞ってくれたから
です。
「長屋」(ながや) とは、
1棟の建物を複数の住居に区割りしたもので、
現在における集合住宅の原型とも言えます。
共同で使用する雪隠や井戸を中央に配置され、
風呂はなく、寝起きする部屋のみが
区割りされている型式です。
表通りに面した住居は
「表店」(おもてだな)(「表長屋」)といい、
主に日常生活に必要な品物を売る小商人が借りそこで商売をしながら暮らしていました。
一方、表通りに面さない、
日当たりの悪い奥に建てられた住居は、
「裏店」(うらだな) といい、
非常に狭く、粗末な作りでしたが、
家賃の「店賃」(たなちん) が安かったため、
下級武士、大工や左官などの職人、行商人、
野菜などを売り歩く棒天振 (ぼてふり)、
表店の下っ端の使用人、日雇いの労働者など、
日銭 (ひぜに) で生活している人達などが
「店賃」を日払いして暮らしていました。
文化文政(1804-1830)頃の
一般的な「裏店」(9尺2間・3坪) の「店賃」は、
月に300~500文程度と、当時、真面目に働けば
2、3日で稼げる程度の安い金額でした。
・大工の稼ぎ :一日500文(約1万円)
・左官や石工の職人:一日400文(約8千円)
このように「店賃」が安かった理由は、
「店子」が使用していた共同便所 (雪隠) からの
排泄物のおかげでした。
化学肥料のなかった時代、
人間の排泄物は貴重な肥料で、
「下肥」(しもごえ) として
近郊の農家に肥料として売れたからでした。
ところで「長屋」には、
土地・建物の所有者(地主・家主)に代わって、
貸地・貸家を管理し、地主から給料を貰っていた
「大家」(おおや) がいました。
「大家といえば親も同然」と言われたように、
「大家」は「店子」を監督する
役割を担ったことから、
「差配人」(さはいにん) とも呼ばれていました。
通行手形の発行や土地家屋の売買、結婚に
「大家」の許可が必要な上、
「店子」を監視して
不審な点があれば退居させるなど、
「店子」に対し絶大な権力を持っていました。
『守貞漫稿』によれば、
江戸には約2万人いたと言われています。
「大家」の地主から給料以外の収入は、
新しい「店子」が移り住む時の「挨拶料」
(「樽代」とか「酒代」と呼ばれました)、
「店賃」を集めた「手数料」(賃料の5%程度)、
店子からのお願いや付き添いなどの「礼金」、
五節句や盆暮に「店子」からの
つけ届けであった「節句銭」(せっくせん) と、
そして最も大きな収入となったのが
先に挙げた「店子」の排泄物=糞尿でした。
ところで排泄物=糞尿をの権利は
「大家」が持っていました。
「大家」は、「下肥」(しもごえ) として
1年契約した近郊の農家に売り、
毎年11月か12月に代金を前受けしました。
大家にとってはとてもいい稼ぎで、
一年に30両から40両もあったと言われて
います。
そのため「大家」は、
「店子」が家賃を滞納している場合でも
追い出さなかったそうです。
また「大家」と喧嘩した「店子」が
「テやんでぇ~。こんどっから、
ここの雪隠は使ってやんねぇ~ぞ !」
と威勢のイイ啖呵を切ったそうです。
また『柳多留』(やなぎだる) には
「店中の尻で大家は餅をつき」とか
「肥え取りへ尻が増えたと大家言い」という
川柳まで詠まれています。
『誹風柳多留』(単に『柳多留』とも) とは、
江戸時代中期から幕末まで、
明和2年から天保11年にかけて
ほぼ毎年刊行されていた川柳の句集です。
167編が刊行されています。
「店子」の糞尿で稼いだ「大家」は
暮れになると「店子」に餅を振る舞うのが
毎年恒例となりました。
「餅つき屋」を頼むほどの金銭的余裕もない
裏店の住民にとっても、
餅は正月の必需品であったため
大いに助かりました。
なお享保6(1721)年頃の江戸では、
年間50万トン以上の「下肥」が生産され、
江戸東部に発達していた運河により船などで
農村近くまで運ばれ消費されました。
この江戸の「下肥」は「江戸肥」と呼ばれ、
発生場所毎に等級があり、
大名旗本や大商店由来は上級品、
貧民が多い長屋由来は下級品とされました。
ただ「表店」の商人より、
「裏店」の職人のし尿の方が
高かったそうです。
ケチな商人より金銭に執着しない職人の方が
良いものを食べていたからなのだか。
きんばん | 上級 | 大名屋敷、旗本屋敷、大商店 |
辻肥 | 中級 | 一般の武家、町屋 |
町肥 | 下級 | 貧民が多い長屋 |
糞便が少なく小便割合が高い | ||
水増し | 下肥を水で薄めたもの |
そして汲取り人は「下掃除人」と呼ばれ、
当初は農家が武家屋敷や町屋と
直接交渉して汲取りを行っていましたが、
やがて専門の業者が出来ました。
そうなると、多くの下掃除の権利を手に入れて
大儲けする業者も出てきたために、
「下肥」の価格は高騰しました。