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木守り(きまもり)

 
 

木守り(きまもり)

「木守り」(きまもり)とは、
柿の実や柚子の実、カボスの実など果実の実を
収穫する際に全部取ってしまわないで、
一つもしくは数個残しておくことを言います。
 
柿の実の場合は「木守柿」(きまもりがき)
柚子ならば「木守柚」(きもりゆず)
言います。
 
「きまもり」の他にも、
「きもり」「こもり」など読み方は様々です。
 
 
昔から、柿の実の梢の方は、
二つか三つ取らずに残して置きました。
小鳥や烏にも分けてやろうという心遣いとも、
来年もまたたくさん実がつきますようにという祈りの意味もありました。
 
 
「柿紅葉」(かきもみじ) は非常に美しいのですが
あっという間に散り落ちてしまいますので、
夕方、ぽつんと残る「木守柿」は何とも
郷愁を誘います。
それも鳥達につつかれていつの間にか落ちると
いよいよ冬も本番です。
 

「木守」という銘を持つ
茶の湯の茶碗

 
「木守」という銘を持つ、
「長次郎七種茶碗」(ちょうじろうしちしゅ)
(「利休七種」 (りきゅうしちしゅ) ともいう)
数えられる茶の湯の茶碗があります。
 
「長次郎七種茶碗」(ちょうじろうしちしゅ) とは、
楽家 (らくけ) の初代長次郎作の茶碗のうち、
千利休が名作と見立てたと伝えられる
黒楽茶碗3種、赤楽茶碗4種から構成される
七種の茶碗を言います。
黒楽茶碗は「大黒」「東陽坊」「鉢開」
赤楽茶碗は「早船」「臨斎」「検校」「木守」
の七碗です。
 
 
「木守」の銘の茶碗を巡っては、
次のような逸話があります。
ある時、千利休が長十郎の楽茶碗 (らくちゃわん)
高弟達に譲り分けた際、
一つだけ残った茶碗がありました。
利休はその色が柿の色に似ていること、
そして「木守柿」のように
一つだけ残ったということから、
「木守」と名付け、殊の外、愛しました。
(この一碗だけは最後まで手放さなかった
 とも言われています。)
 
  
 
利休主宰の茶会にもよく使われて、
秀吉や家康もこの「木守」で
お抹茶を召し上がったと言われています。
 
 
利休没後、この「木守」茶碗は、
武者小路千家の2代・少庵宗淳(千少庵)、
4代・一翁宗守(千宗守)と伝わり、
6代・真伯宗守から高松藩主松平家に献上され、
武者小路千家では、千家ゆかりの名器として
家元襲名披露など重要な茶会の際に
松平家から借りて茶会を行っていました。
しかし大正12(1923)年の関東大震災の際、
惜しくも壊れてしまいました。
 
 
その後、焼け残った破片の一部を用いて、
樂家十二代・弘入 (こうにゅう)
十三代・惺入 (せいにゅう) の親子2代により
「木守茶碗」は復元されました。
 

「木守」に因んだ菓子

香川県高松市では、「木守茶碗」に因んだ
菓子が作られています。
 
関東大震災で壊れてしまった「木守茶碗」が
復元されたことを記念して
明治5(1872)年創業の老舗和菓子店「三友堂」の
2代目・大内松次さんが、
「木守」と菓子に銘をいただき、
「木守」茶碗の見込みの渦巻きを描いた
銘菓「木守」を作ったのです。
 
銘菓「木守」は、干柿の羊羹を挟み、
表面に讃岐特産の和三盆糖を溶かした蜜を
塗った、麩焼き煎餅です。
 

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