
昭和改元の日
大正15(1926)年12月25日午前1時25分、
大正天皇が47歳で御崩御されました。
大正天皇の御崩御に伴い、
午前3時15分に掌典長九条道実が
宮中三殿で践祚を奉告すると同時に、
葉山御用邸付属邸謁見所で
「剣璽渡御の儀」(けんじとぎょのぎ ) が行われ、
皇太子として摂政に就任されていた
裕仁親王 (ひろひとしんのう) が
「天皇」に御即位(践祚)されました。
そして直ちに「昭和」への
「改元詔書」が発せられ、近代最長の64年に
及ぶ「昭和」の時代が始まりました。
昭和天皇は、明治34(1901)年4月29日、
皇太子嘉仁親王(大正天皇)・同妃節子(貞明皇后)の
第一男子として誕生され、御祖父明治天皇より、
御名を裕仁、御称号を迪宮と賜りました。
学習院初等学科第5学年在学中の
明治45(1912)年7月30日、明治天皇の崩御、
大正天皇の践祚により皇太子となられました。
大正3(1914)年より東宮御学問所にて学ばれた後、
大正10(1921)年から半年に渡り欧州を訪問され、
御帰国後の11月25日、摂政に就任されました。
大正13(1924)年1月26日には、久邇宮邦彦王の
第一女子良子女王(香淳皇后)と結婚されました。
そして大正15(1926)年12月25日、大正天皇の崩御により践祚され、第124代天皇となられました。
昭和改元
当時、枢密院議長だった
倉富勇三郎の日記によれば、
宮内省作成の元号案としては
「神化」 「元化」 「昭和」 「神和」 「同和」
「継明」 「順明」 「明保」 「寛安」 「元安」があり、
数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、
「元化」「同和」を参考とする最終案が
決定していました。
一方内閣では「立成」 「定業」 「光文」 「章明」
「協中」を元号案の候補に挙げていたそうです。
光文事件(こうぶんじけん)
「大正」の次の元号が
どのような名称になるのか注目が集まる中、
東京日日新聞(現在の毎日新聞)では、
政府の公表よりも先に
「次の元号は光文」と報じました。
しかし東京日日新聞の予想に反して、
政府は次の元号が「昭和」と発表したため、
結果的に東京日日新聞は大誤報を流布する
結果となりました。
当時の東京日日新聞の編輯主幹であった
城戸元亮 (きど もとすけ) は、
この事態の責任をとって辞任しました。
なお東京日日新聞が誤報を流した時点では
既に「昭和」と決定していたそうです。
「昭和」の由来
四書五経の一つ『書経』尭典 (ぎょうてん) の
「百姓昭明、協和萬邦」
(百姓 昭明にして、萬邦 を協和す)という
一行から上下一文字ずつ取ったものです。
これは「人々が徳を持ち、仲良く調和して、
世界が平和に繁栄する」という意味が込められ
ています。
この元号は、
漢学者の吉田増蔵 (よしだますぞう) 氏が考案し、
平和な時代への願いを込めて名付けられました。
即位の礼
大正天皇の喪の明けた昭和3(1928)年、
即位礼(御大礼)を始めとする
儀式「御大典」が挙行され、
暗い雰囲気一切を吹き飛ばすかのような
国家の慶事となりました。
剣璽等承継の儀
(けんじとぎょのぎ)
「剣璽等承継の儀」とは、
皇位を継承された新天皇陛下が、
即位の証しとして
「皇位とともに伝わるべき由緒ある物
(皇室経済法第七条)」である
剣及び璽を承継されるとともに、併せて、
国事行為の際に使用される御璽及び国璽を
承継される儀式です。
大正から昭和への皇位継承に伴う
「剣璽等承継の儀」は、
大正15(1926)年12月25日午前3時15分に
執り行われました。
即位後朝見の儀
「即位後朝見の儀」は、天皇が即位後に
国民に初めてお会いする国事行為の儀式です。
昭和2(1927)年1月11日に皇居で行われ、
新天皇が初めて国民代表(三権の長・国会議員・
自治体代表など)に会って
「(国家の) 安寧と (世界の) 平和、
人類福祉の増進を祈念する」という内容の
簡潔な御言葉を述べ、
内閣総理大臣が奉答 (ほうとう) しました。
即位礼正殿の儀
践祚後、皇位を継承したことを
国内外に公式に示す儀式が「即位の礼」です。
その中心儀式が「即位礼正殿の儀」です。
昭和3(1928)年11月6日、
即位礼・大嘗祭を執り行うため
新天皇陛下は京都へ向け御出発されました。
この時、宮城(皇居)から東京駅までの
儀装馬車による馬車列(鹵簿)は、
全長594mに達したそうです。
東京駅から京都駅までの長距離は、
特別に仕立てられた御召列車で移動され、
京都駅からは、再び馬車列を編成し、
京都御所まで移動されました。
そして「即位の礼」は、11月10日に
京都御所の紫宸殿で執り行われました。
当日の参列者は勲一等以上の者665名、
外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、
午後3時ちょうど、天皇陛下の前で
内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱しました。
大嘗宮ノ儀
天皇は紫宸殿の儀を終えた後、
14日に大嘗祭「大嘗宮ノ儀」を挙行しました。
21日には伊勢神宮を親拝し、
即位の大礼に係る一連の儀式を終えた旨、
奉告し、帰京しました。
帰京後は宮中晩餐会、夜会などの祝宴の他、
観兵式・観艦式等が執り行われました。
大正天皇の御最期
大正天皇の御生涯は、
病気との闘いの連続でした。
大正天皇は御降誕後1年の間に2回、
鉛中毒が原因の可能性がある
「脳膜炎様の御疾患」に罹患されました。
その後も百日咳、腸チフス、胸膜炎などに
罹患 (りかん) されています。
青年期になって学習の後れを取り戻そうと、
詰め込み式の帝王教育を急いだことも、
心身に御負担を強いたとされています。
ですが明治33(1900)年の貞明皇后との結婚後は
急速に健康を回復したことから、
精力的に地方巡啓を重ねました。
そして明治45(1912)年に123代天皇として即位、
大正4(1915)年に即位礼、大嘗祭が
「京都御所」で執り行われました。
ところが大正7(1918)年末から再び体調を崩し、
大正10(1921)年、当時皇太子殿下であった
裕仁親王殿下(後の124代・昭和天皇)が
摂政に就任すると同時に、
宮内省は病状報告を発表しました。
宮内省発表の「聖上陛下御容体書」
天皇陛下に於かせられては禀賦御孱弱
(生まれつき身体が弱いこと)に渉らせられ、
御降誕後三週日を出てさるに脳膜炎様の御疾患に
罹 (かか) らせられ、御幼年時代に重症の百日咳、
続いて腸チフス、胸膜炎等の御大患を
御経過あらせられ、其の為め御心身の発達に
於いて幾分後れさせらるゝ所ありしが、
御践祚 (せんそ) 以来内外の政務御多端に渉らせられ
日夜御宸襟 (しんきん) を悩ませられ給ひし為め、
近年に至り遂に御脳力御衰退の徴候を拝するに
至れり。
目下御身体の御模様に於ては
引続き御変りあらせられず、
御体量の如きも従前と大差あらせられざるも、
御記銘、御判断、御思考等の諸脳力漸次
衰へさせられ、御思慮の環境も随 (したがっ) て
陝隘 (きょうあい) とならせらる。
殊に御記憶力に至りては御衰退の兆最も著しく、
之に加ふるに御発語の御障碍 (しょうがい) あらせ
らるる為め、御意志の御表現甚 (はなはだ) 御困難に
拝し奉るは洵 (まこと) に恐懼に堪へざる所なり
大正10年11月25日の東京朝日新聞夕刊
大正14(1925)年12月には、
重度の脳貧血を発症し
4ヶ月もの間寝たきり状態となります。
一時は歩行出来るまでに回復しますが、
翌大正15年年初、風邪を引いたことが
きっかけで更に体調を悪化させます。
12月には更に容体が悪化し危篤の報が出ると、
全閣僚が療養先の「葉山御用邸」に駆け付け、
世間でも大正天皇の体調を案じる雰囲気
が広がって全国で年末の行事が自粛されたり、
平穏祈願が行われたりします。
12月16日以降はラジオの娯楽放送も中止され、
大正天皇の病状は随時報告されました。
しかし病状は回復せず、
大正15年(1926)12月25日午前1時25分、
貞明皇后、実母の柳原愛子、
皇太子殿下御夫妻らが見守る中で
心臓発作により御崩御。享年47でした。
大正15(1926)8月に発足したばかりの
社団法人日本放送協会発足では、
大正天皇の崩御を次のように放送しました。
「陛下は六千万国民が心を一にして、
只管御快復を御祈り申し上げた効もなく、
御登遐遊ばされたのであります。
皇室の御不幸は同時に
吾々国民の一大不幸であります。
真に恐懼の至に堪えませぬ」
新聞と並び天皇崩御の情勢を伝えたラジオは
娯楽慰安のためだけではなく、
国家的報道機関の役割を持つものとして
認められた瞬間でした。
なお大正天皇は、
非常に気さくな御性格であったそうです。
10回以上日本中を巡幸しましたが、
列車での移動も一般車両に乗車し、
乗客に話しかけたり、
お泊まりの宿を勝手に抜け出して
蕎麦屋に食べに行ったり、
競馬を観戦した時には、
終始立ち上がって叫び続けたそうです。
大正天皇は、一夫一婦制を貫き、
皇太子時代の明治33(1900)年に結婚した
節子 (さだこ) 妃殿下との間に
4人の男の子をもうけられました。
最初の巡幸の際には節子妃も同行されていて、
これは明治天皇の時代には考えられないこと
でした。
非常に子煩悩で、皇室の長年の伝統に従って
別居はしていましたが、
夫妻で何度も訪れるなどして
非常に暖かい家庭を作っていたそうです。
鬼ごっこや将棋などを
皇子達と楽しんでいたそうで、
昭和天皇が6歳の時のクリスマスには
靴下にプレゼントを詰めて贈ったと
伝えられています。
また大正天皇は、「昭陽」(しょうよう) の雅号で、
明治29年から大正6年の22年間 (1896-1917年)に
1,367首の漢詩を詠んでおり、
これは歴代の天皇の中でも1番を誇る数です。
その一方で和歌については、生涯で465首程と
歴代天皇の中でも突出して少ない数でした。
大正天皇の大喪礼
天皇崩御の際、
国の儀式(国葬)として行われる「大喪の礼」と、
皇室の儀式である「大喪儀」(たいそうぎ) が
あります。
宮城に戻られる
大正15(1926)年12月27日に
菊花紋章の黒布に覆われた大正天皇の棺は、
葉山から皇居へ奉還されました。
午後4時40分、葉山御用邸から霊柩馬車により
逗子停車場まで運ばれました。
馬車の後ろには皇太后陛下、高松宮殿下などの
自動車が続きました。
午後5時35分に逗子停車場を出発。
午後7時5分に東京の原宿皇室専用駅に到着。
棺は皇室関係者、国務大臣などや
寒空の下にも関わらず詰めかけた
多くの奉迎者が見守る中、霊柩馬車に移され、
白砂が敷き詰められた道を宮城 (皇居)に向かい、
午後8時20分、宮城の明治宮殿に到着しました。
大喪の儀まで
大行天皇 (たいこうてんのう) の御遺骸を
仮安置する櫬殿 (しんでん ) が
明治宮殿表宮殿豊明殿に設置され、
「御拝親訣」(ごはいしんけつ) と
「槻殿の儀(御舟入の儀)」が行われ、
諒闇 (りょうあん) の期間はおよそ1年間と
定められました。
・大行天皇(たいこうてんのう)
天皇が崩御された後、まだ 諡号 (しごう) を
贈られていない間の尊称
・御拝親訣(ごはいしんけつ)
遺された皇族方が櫬殿に安置された遺体に
最期の別れを告げる
・槻殿の儀(御舟入の儀)
御遺骸を内槽(内棺)に収める
・諒闇(りょうあん)
天皇・太皇太后・皇太后の死にあたり
喪に服する期間のこと
翌昭和2(1927)年1月3日には
挙行することが告示されました。
神武天皇から明治天皇までの陵は
ほとんど近畿地方にあり、
東京に御陵所が置かれたのは
大正天皇陵が初めてでした。
因みに明治天皇の大喪は、
帝国陸軍練兵場(神宮外苑)で行われ
東海道線を使って
京都の伏見桃山陵に運ばれました。
1月5日に「殯宮移御の儀 」が行われて、
霊柩を槻殿から「殯宮」に遷座すると、
「殯宮」では大喪当日まで連日、
天皇・皇后・皇族以下、側近奉仕者、華族、
各界代表らが昼夜交代で霊柩に付き添う
「殯宮伺候」(ひんきゅうしこう) が
続けられました。
諡号(しごう)
1月19日には、殯宮にて
「追号奉告の儀」が行われ、
「大正天皇」と諡 (おくりな) されました。
大喪儀
「大喪儀」当日の昭和2(1927)年2月7日は、
9時から霊代(れいだい)を権殿 (ごんでん) に安置する
「霊代奉安の儀」(れいだいほうあんのぎ)、
10時からは殯宮 (もがりのみや) で
出棺前に鎮魂と安らかなる旅立ちを祈る
「斂葬当日殯宮祭の儀 」を挙行。
17時30分の「轜車発引の儀」(じしゃはつひきのぎ)で
霊柩が殯宮から牛車の轜車に遷座されると、
18時、1発の号砲を合図に
霊柩を乗せた轜車 (じしゃ) は、約2時間半をかけ、
「新宿御苑」に向けて出発しました。
そして21時20分から23時まで
「葬場殿の儀」が実施されました。
この葬列を見るために200万人を超える人が
各地から集まったそうです。
その後、霊柩は新宿御苑仮停車場の
大正天皇大喪用の霊柩列車に移されると、
東浅川仮停車場に向けて、
新宿御苑仮停車場を発車。
東浅川仮停車場から
更に「多摩陵」に設けた祭場殿に
2時45分に到着すると、
そのまま「陵所の儀」が始まり、
6時15分、霊柩を玄宮の石槨に埋葬する
「陵所の儀・埋柩の儀」が完了しました。
「改元」に関連する記念日
6月19日「元号の日」
大化元(645)年のこの日(旧暦)、
日本初の元号「大化」(たいか) を制定したことに
因んで記念日が設けられています。
9月8日「明治」改元の日
慶応3(1867)年1月9日に践祚 (せんそ) した
睦仁 (むつひと) 親王殿下が
慶応4(1868)年8月27日に即位式を挙げ、
9月8日に「明治改元の詔」が発せられ、
「明治」と改元されました。
併せて、天皇一代に元号を一つとする
「一世一元」の制が定められました。
それ以前は天皇の在位中にも
災害など様々な理由により
しばしば改元が行なわれていました。
7月30日「大正」改元の日
明治45(1912)年のこの日に
明治天皇が御崩御され、
当時、皇太子であった嘉仁 (よしひと) 親王が
新天皇に御即位され、それと共に
新しい元号「大正」が制定されました。
「大正」の由来は、『易経』彖伝・臨卦の
「大亨以正、天之道也」
(大いに亨 (とほ) りて以て正しきは、天の道なり)から。
これは「政 (まつりごと) を執り行なう人が、
民の意見・言葉を喜んで聞き入れるならば、
政は正しく行なわれる」という意味です。
1月8日「平成」改元の日
昭和64(1989)年1月7日の
昭和天皇の御崩御を受けて、
当時の皇太子・明仁 (あきひと) 親王殿下
(現在の上皇陛下)が新天皇に御即位され、
それと共に元号が「平成」が始まりました。
この日は「平成スタートの日」とか
「平成はじまりの日」などとも呼ばれます。
5月1日「令和」改元の日
令和元(2019)年5月1日午前0時、
「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」の
規定に基づいて、
第125代天皇が譲位され「上皇」となり、
当時の皇太子殿下が
第126代天皇に御即位されたことを受けて、
「元号法」の規定に基づき、
「平成」から「令和」に改元されました。
平成28(2016)年8月8日、
改元に至る経緯について、
当時の天皇(現在の上皇)陛下が自ら
ビデオメッセージにてご説明されました。
それによると、自らの高齢化により
今までのように
公務が果たせなくなることを御懸念され、
「公務が途切れることなく
安定的に続くことを望む」と正式に発言し、
その前に当時の皇太子殿下(現・天皇陛下)に
皇位を譲りたい趣旨のお考えを示されました。