
浅草田圃の酉の市
「酉の市」は、まず、葛西花又村
(現在の東京都足立区花畑)の「酉の市」が
「本酉」と呼ばれて人気を集めました。
それが江戸の中頃、明和8(1771)年頃からは、
下谷竜泉町 (したやりゅうせんじちょう)、
現在の東京都台東区千束にある長國寺境内の
鷲大明神社 (現・浅草鷲神社)の「酉の市 (新酉)」は
「浅草田圃の酉の市」(あさくさたんぼのとりのいち)
と呼ばれて人気が集まるようになりました。
明治時代になり新政府に出された
「神仏分離令」によって、神仏習合していた
別々の寺社となりました。
そのため「浅草 酉の市」は、現在では、
開催する形となっています。
「酉の市 (新酉)」の方に人気が移ったのは、
「酉の市 (本酉) 」が行われていた花又村で
博奕 (ばくち) が禁止されたためと言われて
います。
ただそれ以上に「浅草田圃の酉の市」の
賑わいに貢献したのは、
鷲大明神社が浅草田圃 (あさくさたんぼ) を挟んで
西隣に幕府公認の遊郭「新吉原」があったため
と言われています。
新吉原(しんよしわら)
吉原遊郭
「吉原遊廓」は江戸唯一の幕府公認の遊廓です。
元和3(1617)年、幕府の許可を得て
庄司甚右衛門 (しょうじじんえもん) が
江戸市中に散在していた遊女屋を
日本橋に集めたことより始まり(元吉原)、
明暦の大火後に浅草北東部、
現在の東京都台東区千束3~4丁目辺り
(新吉原)に移転しました。
「新吉原」には連日多くの人々が詰めかけ、
魚河岸、芝居町と並び一日に千両の金が
落ちるほどの繁華街として賑わい、
明治以降も遊廓としての営業を続けましたが、
昭和33(1958)年4月、「売春防止法」が施行され
その長い歴史に終止符が打たれました。
新吉原の概要
「新吉原」は、江戸市中から見て
北に位置していることから、
北里、北国、 北州、北廓などとも
呼ばれました。
400m弱×300mの長方形の形をした、
約3万坪(10万㎡=東京ドーム約2個分)の
広さを持つ特別区域で、高い黒板塀と
「御歯黒溝」(おはぐろどぶ) と呼ばれる
幅2間(3.64m)程の堀に囲まれ、
日頃の出入りは唯一「大門」が使われ、
外界から完全に隔絶されていました。
「おはぐろどぶ」と呼ばれたのは、
濁って黒かったからとも、
遊女が化粧の際に鉄漿 (おはぐろ) を
流したからとも言われています。
なお、非常用に「はね橋」が
9か所も架けられていましたが、
普段は上げられていて通行出来ませんでした。
「大門」の中
「大門」は黒塗りで板葺き、
屋根付きの立派な冠木門でした。
明け六ツ (午前6時) の拍子木の合図で開けられ、引け四ツ (午後10時) に閉められましたが、
実際は九ツ (深夜0時)に
四ツの拍子木を打って2時間ごまかした他、
閉門後も一刻(2時間)営業されて、
出入りは大門の横木戸を使いました。
このような夜の出入りが許可されたことを
契機に、客筋は町人が激増したそうです。
「大門」を潜ると、新吉原の中央を貫通する
全長300mのメインストリート
「仲の町通り」があって、通りを挟んで
右手には江戸町一丁目、揚屋町、京町一丁目、
左手に伏見町、江戸町二丁目、京町二丁目が
左右対称に碁盤目の7つの町が並び、
各町の入り口には木戸門が設けられて
いました。
そして「仲の町通り」通りの突き当たりは
「水道尻(水戸尻、水吐尻)」(みとじり) と呼ばれ、「鷲大明神社」と近接していました。
新吉原内の水道施設の末端があったので、
「水道尻(水戸尻・水吐尻)」(みとじり) と
呼ばれました。
ですが他にも、「新吉原」の場所は、
以前は水戸藩の塵埃の捨場で、
「新吉原」になった後も月2回、
水戸家の目付同心が吉原町内を見回り、
その際、茶屋で饗応を受けて帰るのを
慣行としたからとも言われています。
水戸家の良からぬ同心・足軽の中には、
葵紋が付いた状箱などを懐へ密かに隠し、遊女と同衾した翌朝、
金銭を所持していないと告げ、
遊女屋の若者衆と揉め事となると、
ワザと状箱を取り落として葵紋を見せて、
大声怒号で「水戸家の御用を妨げたり」と
言い、結局勘定をチャラにして帰った
そうです。
出入りを厳しく監視
「大門」は見張りだらけ
「大門」を入ってすぐの左手には
「面番所」(めんばんしょ) という建物があって、
町奉行所の隠密同心が2人と岡っ引きが
交代で常駐して、犯罪者が入ってこないかを
監視していました。
更に「面番所」の向かい側にも、
「四郎兵衛会所」という監視所があって、
ここでは女性の出入りを監視していました。
男性の場合は、たとえただの冷やかしの
見物客でも出入り自由だったのですが、
女性の出入りは厳しく監視されていて、
予め茶屋で通行書となる切手を手に入れて
大門を通る際には「四郎兵衛会所」の番人に
見せなくてはいけませんでした。
吉原通り抜け
ところが「酉の市」の日に限っては、
一般人にも通行許可が出て、
「新吉原」の中を通り抜けて
「酉の市」へと参拝することが出来ました。
また遊郭も千客万来を願い、
遊女にも参拝を奨励しました。
それによって「酉の市」が吉原と結びついて
栄えたという事情もあります。
きっかけ
酉の市での「吉原通り抜け」が
いつ頃始まったのかはよく解りません。
ただ「新吉原」と「鷲大明神社」は、
浅草田圃を挟んでお隣同士でしたが、
「鷲大明神社」があった場所は
唯一の入り口「大門」とは正反対の
「水道尻(水戸尻、水吐尻)」の方。
「大門」には大周りをしなくてはなりません。
「目と鼻に見えてるのに、
何とかならないのか」ということで、
「酉の市」の日に限って、西側の門を開けて
自由に通行出来るようになりました。
更には、通常開けない「大門」以外の
「御歯黒溝」(おはぐろどぶ) に非常用に架けられた
9か所あった「はね橋」も開けられて、
酉の市の参拝者が新吉原の中の通り抜けが
許されるようになりました。
書き入れ時
こうなると、老いも若きも男も女も
吉原遊廓の通り抜けを
「酉の市」のお目当てにするように
なりました。
「酉の市」の日は、吉原でも
書き入れ時だったことは間違いありません。
この日を「紋日」(もんび) にして、
昼見世を張って客を引きました。
「かきいれどき」は漢字では
「書き入れ時」と書きます。
これは、商売が繁盛して売上が増えて
帳簿に「書き入れる」ことが多くなる時期
だということから生まれた語だからです。
転じて、仕事が集中する忙しい時期、
利益が多い時のことも指すようになりました。
明治時代の東京の庶民の生活を描いた
『東京年中行事』には、
そんな吉原の酉の市の様子が記されています。
「廓内の芸娼妓はそんじょそこらの
お馴染み筋へ檄 (げき) を飛ばして
何でもかんでもお仕舞をつけて貰う。
中にも全盛を競う娼妓などは年季を増しても
例の縮緬や緞子の積夜具をする。
こうして廓内の引手茶屋はもちろんのこと、
いずれの妓楼もドンチャンドンチャンと
沸き立ち返るような賑わい。
大門前の料理店なども今日を晴れと飾り立て
積樽鬼灯高張 (つみだるほおずきたかはり) など
眼もさめんばかりに輝き渡り、
いらっしゃいいらっしゃいの声は
かまびすしなんど云うばかりもない。」
熊手の笄・簪
一方客の方も、遊女は馴染みが重なると
代役を送ったり、
誰も現れないこともあったので、
気に入った遊女に振られないために
様々気を使ったとそうです。
1800年代初頭に書かれた江戸を中心に
房総から尾張地方に至る各地の見聞記
『遊歴雑記』(ゆうれきざつき ) の中の
「熊手の笄 (こうがい)・簪 (かんざし)」には、
縁起熊手をミニチュアにした簪 (かんざし) を
吉原の遊女や芸者にプレゼントしたところ
人気が出たことから、この「かんざし熊手」を
張見世の格子の間から差し出して
遊女の歓心を引く事もあったようです。
三の酉まである年は
「火事が多い」
「吉原に異変が起こる」
11月の酉の日を祭日とする「酉の市」は、
年により2回の時と3回の時があります。
そして「三の酉」まである年は、
「火事が多い」とか「吉原に異変が起こる」と
言われています。
由来は諸説あります。
火の用心を促す説
寒くなって火を使う機会が増えるため、
火の用心を促すための戒めとして
言われるようになったという説があります。
「三の酉」は珍しい説
「酉の日」は12日周期で訪れるため、通常は
「一の酉」「二の酉」までしかありません。
そのため「三の酉」まである年は、
珍しいことだと認識され、
不吉な事や火事など悪いことが起こると
考えられました。
ですが「三の酉」まである年の割合は、
ほぼ2分の1(約50%)です。
宵に鳴かぬ鶏が鳴くと
火事が出る説
「宵に鳴かぬ鶏が鳴くと火事が出る」という
言い伝えが「三の酉」と結びついたという
ものです。
本来は「宵の口」に鳴かないはずの鶏が
鳴くのは不吉な兆候であり、
火事を引き起こすという言い伝えです。
男性を吉原に行かせない説
男性が「お酉さまに参詣する」と言って
大手を振って出掛け、
その帰りに隣接する「新吉原」に寄ることを
何とかして牽制しなくてはなりません。
まして、3回も「お酉さま」があったのでは
たまったものではありません。
そこで「三の酉」がある時は
「火事が多い」「吉原遊廓に異変が起こる」
という俗信を作って、男性の足が
吉原に向かないようとしたのだろうと
考えられます。
実際は?
過去のデータから
「三の酉」の年と「火災の発生率」に
有意な相関関係はありませんでした。
有名な「吉原大火」が発生したのは
明治44(1911)年4月9日で、
この年に「三の酉」はありませんでした。
因みにこの年は「辛亥」(かのとい) で、
「丙午」(ひのえうま) でもありませんでした。
「吉原大火」
明治44(1911)年4月9日午前11時30分頃、
浅草区新吉原江戸町にあった
美華登楼から出た火は南の烈風に煽られ、
吉原遊廓内を全て焼き尽くし、
更に山谷から南千住にかけて延焼し、
10時間余に渡って燃え続け、
6550戸を焼失しました。
吉原での火事
江戸時代を通して、江戸全体での大きな火事は
100回前後(資料により90回、110回、140回)、
大火事とまでは呼べないものも含まれると、
その10倍以上発生しました。
火事の回数は、
「大火事」と「普通の火事」を
区別する基準の違い、
一次資料の記録の差などにより、
資料によって回数が異なっています。
そのうち元吉原・新吉原での火事は31回あり、
そのうち全焼は22回あったそうです。
そして火事がある度に、
吉原周辺の山谷から今戸辺りの農家と
賃貸契約を結んで遊郭の仮宅営業を続けて、
その間に妓楼を再建したそうです。
実はこの仮宅での営業は、
格式ばらず揚代金も手軽だったことから人気で
却って繁盛することも多かったようです。
ところが仮宅での営業は、幕府の定めでは
「全焼」でない営業が許可されませんでした。
一軒でも焼け残ると、
妓楼を再建するまでの数か月間、
仮宅営業が出来ず、売上がないまま
遊女や使用人を遊ばせておくことも
出来ないことから、
吉原で大火があると、遊郭の全て残らず
燃やしてしまったのだそうです。
新吉原の火事の際は、江戸の火消しは
新吉原の衣紋坂から「大門」に通じる
五十間道 (ごじっけんみち) の茶屋の上から
鎮火するのを見守るだけで、
敢えて消火活動をしなかったそうです。