「酉の市」は、毎年11月の「酉の日」に
大鳥神社など酉にまつわる神社寺院で
開催される縁日です。
「酉の市」
「酉の市」とは
「酉の市」とは、毎年11月の酉の日の酉の刻に
関東地方に数多く存在する鷲神社
(大鳥神社・大鷲神社・鷲神社=おおとりじんじゃ)で開催される行事です。
「大酉祭」(おおとりまつり)「お酉様」(おとりさま)
などとも呼ばれています。
「酉の市」は初めは農民が主体となった
秋の収穫を祝うお祭りでしたが、
やがて「酉の市」の「とり」が「取る」に通じ、
縁起が良いとして商人も願掛けする
大きな例祭になりました。
1年の無事に感謝し、
来る年の開運招福と商売繁盛を願います。
「一の酉」「二の酉」「三の酉」
「酉の日」は12日毎に回ってくるので、
1回目を「一の酉」、
2回目を「二の酉」と言います。
年によっては11月に
「酉の日」が3回巡ってくる年もあり、
3回目を「三の酉」と言います。
古くから
「三の酉が来る年は火事が多い」と言われ、
「三の酉」の年だけに授けられる
「火難除け」や「災難除け」のお守りを
購入する人も少なくありません。
「三の酉」がある時に
どうして火事が多くなると言われるのか?
明治元(1868)年の「神仏判然令」布告により、
それぞれの寺で「大鷲明神」は分離され、
下谷長国寺から独立した「大鷲神社」は、
吉原遊廓のすぐそばであったこともあり
大いに賑わいました。
そして11月の「酉の大祭」には
吉原の縁起に因んだ「オカメの熊手」が売られ、
吉原の大門も四方を開けて手軽に入れるようになりました。
どうもこの頃から、
「火事が多い」説が出たようです。
というのは、「お酉さま」の参詣の帰りに、
男性が吉原に寄ることが多く、
留守をあずかる女性としては、何とかして
亭主などを家に引き戻さなければなりません。
まして、3回も「お酉さま」があったのでは
たまったものではありませんから、
「三の酉」のある時は「火事が多い」とか
「吉原遊廓に異変が起こる」という俗信を作り
男性の足を引き止めようとしたのだろうと
考えられます。
このことは、
「お多福に熊手の客がひっかかり」
「そのあした熊手のオカメしがみつき」
という川柳によっても伺われます。
因みに実際に「三の酉」の時に火事が増えた
という記録はありません。
令和6(2024)年の「酉の市」
令和6(2024)年の「酉の市」は、
一の酉が11月5日・火曜日、
二の酉が11月17日・日曜日、
今年は三の酉があって11月29日・金曜日と
なります。
酉の市の始まり
鷲神社
(大鳥神社)
関東に点在する「鷲神社(大鳥神社)」は、
武運や商売繁盛の神として信仰される
日本武尊(やまとたけるのみこと)を祀りする
神社です。
全国の大鳥神社及び大鳥信仰の総本社は、
大阪府堺市にある「大鳥神社」です。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は
第12代景行天皇の第二皇子で、
父の景行天皇に命じられて
西方の熊襲(くまそ)を討ち、
更に東方の蝦夷(えみし)を制圧しますが、
大和国に帰る途中で倒れ、お亡くなりました。
そして日本武尊の身体から魂が抜け出て
大きな白鳥になり飛び立っていったという
伝説があります。
「酉の市」の発祥
酉の市の始まりは、
現在の東京都足立区花畑にある
「大鷲神社」であると言われています。
東征の帰路に花畑に本陣を置いた日本武尊は、
盗賊に苦しめられていた人々を救済しました。
人々はその善行に厚く感謝し、
日本武尊崩御の後、
「大鷲神社」の御祭神として祀りました。
そして室町時代の応永年間(1394-1428年)に、
日本武尊の命日とされる11月の「酉の日」に
祭事が始まりました。
当初は近在の農民が鎮守である
「鷲大明神」に感謝した収穫祭で、
祭りの日、氏子達は鷲大明神に鶏を奉納し、
終わると集まった鶏は浅草の浅草寺まで運び、
観音堂前に放してやったと言われています。
江戸時代中期までは、
花畑では博打が公認されていたため
「酉の市」は大変な賑わいを見せましたが、
江戸から少し離れていたことから、
遊郭吉原のお膝元である
「新鳥」と呼ばれた下谷の鷲神社の酉の市に
人々は集まるようになりました。
浅草の「鷲神社」に伝わる
「酉の市」の起源は次の通りです。
東夷征討の際、戦勝祈願のため
社に立寄られた日本武尊は、
志を遂げての帰途、
社前の松に武具の「熊手」をかけて
勝ち戦を祝い、お礼参りされました。
この日は「酉の日」で、
後に鷲神社「例祭日」と定め、
酉の祭「酉の市」を開催するようになりました。
関東三大酉の市
鷲神社・長國寺
(東京都台東区)、
(東京都台東区)、
花園神社(東京都新宿区)、
大國魂神社(東京都府中市)は
特に規模が大きく、
「関東三大酉の市」と言われています。
浅草 酉の市
(あさくさ とりのいち)
江戸時代から現在まで、
最も有名な「酉の市」と言えば、
浅草の長国寺境内の鷲神社です。
日本最大級の規模を誇り、
毎年800~900の店舗が出店し、
70~80万人もの参拝客が訪れます。
「酉の日」の午前0時に一番太鼓が鳴り響き、
祭りのスタートを告げます。
長国寺境内の鷲神社には、
天日鷲命(あめのひわしのみこと)と
日本武尊(やまとたけるのみこと)が祀られ、
通称「おとりさま」と親しまれてきた神社です。
大國魂神社「酉の市」
(おおくにたまじんじゃ・とりのいち)
武蔵国の総社として1900年以上もの歴史を持つ
東京都府中市の「大國魂神社」の
拝殿の西側に位置する大鷲神社の祭礼である
「酉の市」は熊手の他、農具なども売り出され、
江戸時代から商人や農民など、
府中の人々に広く愛されてきたお祭りです。
花園神社「酉の市」
(はなぞのじんじゃ・とりのいち)
浅草と並ぶ賑わいを見せる
「新宿の守り神」として愛される
「花園神社」(はなぞのじんじゃ)の「酉の市」は
明治に入ってから始まりました。
「花園神社」の境内には、
「酉の市」の前夜祭・本祭の2日間に渡って、
約900灯の提灯が立ち並び、
熊手店や屋台などが200店舗以上、
靖国通り沿いにも多くの屋台が立ち並びます。
今ではなかなか見ることがない
「見世物小屋」を楽しむことが出来るのも
魅力の一つです。
熊手(くまで)
「酉の市」で頒布される「熊手」は、
商売繁盛の縁起物として広く親しまれて
います。
落ち葉を「かき寄せる」
熊手の使い道にあやかって、
幸運や金運などの福運を「かき寄せる」
縁起物とされたのです。
金銀財宝を詰め込んだ熊手には、
隠し絵のように縁起物が盛り込まれています。
隠し絵のように縁起物が盛り込まれています。
- 鶴 =長寿
- 矢 =当たる
- 鯉 =立身出世
- 七 福 神 =福を呼ぶ
- 打ち出の小槌=お金が儲かる
「熊手」は基本的に毎年買い換える縁起物です。
「去年よりも大きな成功と幸せを呼び込もう」
と願い、
少しずつ大きいサイズにしていくと
ご利益があると言われています。
江戸っ子の粋な買い方
「縁起熊手」は、値切れば値切るほど
縁起が良いとされていますので、
う~んと値切って粋に買いましょう。
但し、これは売り手と買い手の
やりとりを楽しむものですので、
値切った値段のまま
安く買うのは野暮というもの!
最初に聞いた値段で払い、
値切った分のお釣りは
もらわずにご祝儀にするというのが
粋だとされています。
- 値段を聞く
⇩ - 値切る
⇩ - 更に値切る
⇩ - もっと値切る
⇩ - 商談成立
熊手の飾り方
この熊手でかき込むのは
ゴミではなく「福」ですので、
福を取り込みやすいように、
玄関などの入り口に向けて
少し高いところに飾るか、
神棚に供えて、お正月を迎えます。
かっこめ
(熊手御守)
「かっこめ」とは、小さな竹の熊手に
稲穂や札を付けた酉の市のお守りです。
熊手で福を「かっ込もう」という、
縁起担ぎの呼び名です。
酉の市名物1.
「八頭」(やつがしら)
「八頭」(やつがしら)は、
「酉の市」で売られている大きな芋のことです。
古来より「頭の芋」(とうのいも)とも呼ばれ、
人の頭に立つように「出世出来る」と言われ、
更に一つの芋から沢山の芽が出ることから
「子宝に恵まれる」という縁起物です。
酉の市名物2.
「切山椒」(きりざんしょ)
「八頭」と並んで「酉の市」の縁起物の一つに「黄金餅」(こがねもち)がありました。
「黄金餅」とは「粟餅」(あわもち)のことで、
粟餅の黄色が金色の小判に
よく似ていたことから
「金持ちになるように」との縁起で
売られていました。
現在は、黄金餅(粟餅)を商うお店は
無くなりましたが
年の瀬を告げ、正月用の餅菓子である
「切山椒」(きりざんしょ)が売られています。
「山椒」は日本最古の香辛料で、
葉、花、実、幹、樹皮に至る全てを利用する他、
山椒の木はとても硬いので
すりこぎや杖としても利用されています。
このように捨てるところがなく、
全てが利用出来る(有益である)との縁起から
「切山椒」が商われるようになりました。
また、酉の市で「切山椒」を食べると、
冬に風邪を引かないと言って人気です。