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四方拝(しほうはい)

「四方拝」(しほうはい) は、正月一日の早朝、
宮中で行われる儀式です。
天皇陛下が天地四方の神祇を拝し、
年災消滅・五穀豊穰を祈ります。
 
 

四方拝(しほうはい)とは

「四方拝」は平安初期に宮中に取り入れられ、
現在も、元日の冷え込む曙光まだ輝き初めぬ
午前5時30分に、皇居吹上御所にある
神嘉殿 (しんかでん) の南庭にて、
黄櫨染御袍 (こうろぜんのごぼう) を纏った
天皇陛下が、
伊勢の皇大神宮・豊受大神宮に向かい拝礼後、
天地四方の諸神や天皇陵を遥拝し、
その年の国家の安泰、国民の幸福、五穀豊穣、
災難消除を祈念する宮中祭祀です。
 
天皇陛下が御遥拝になる神々は次の通りです。
・伊勢神宮 外宮内宮「皇大神宮」「豊受大神宮」
・天神地祇(天つ神、国つ神の全ての神々)
・橿原神宮北にある「神武天皇陵」
・先帝三代(明治天皇・大正天皇・昭和天皇)の陵
・武蔵国一宮「氷川神社」
・山城国一宮「賀茂別雷神社」「賀茂御祖神社」
・二所宗廟の「石清水八幡宮」
・草薙の剣を祀る「熱田神宮」
・常陸国一宮「鹿島神宮」
・下総国一宮「香取神宮」
 
後醍醐天皇の『建武年中行事』によれば、
庭に「大宋御屏風」(たいそうのおびょうぶ)
立て廻らせ、
畳の「御座」(おざ) を北向きに設置し、
「御座」の前には白木の机を立て、
その上には香花・灯を置いたようです。
「御座」を北向きに設置するのは、
まず北辰 (北極星) に向かって拝礼するためです。
 
天皇は湯浴みの後に
重儀用の黄櫨染御袍 (こうろぜんのごほう) を着用。
 
その後、「属星」(ぞくしょう) に対して
呪文を唱えます。
「属星」(ぞくしょう) とは、
自らの運命を支配するとされる星のことで、
生年の干支により
次のように定められていました。
 🐭子    =貪狼星(どんろうしょう)
 🐮丑・🐗亥=巨門星(こもんしょう)
 🐯寅・🐶戌=禄存星(ろくぞんしょう)
 🐰卯・🐓酉=文曲星(もんごくしょう)
 🐉辰・🐵申=廉貞星(れんていしょう)
 🐍巳・🐑未=武曲星(ぶごくしょう)
 🐴午    =破軍星(はぐんしょう)
 

「四方拝」の呪文

唱える呪文は、平安時代の書物で、
宮中の儀式などを記した
『江家次第』(こうけしだい) によると
次のように書かれています。
 

賊寇之中過度我身ぞくこうしちゅうかどがしん
(賊冦の中、わが身を過して済度下さい)

毒魔之中過度我身どくましちゅうかどがしん
(毒魔の中、わが身を過して済度下さい)

毒氣之中過度我身どくけしちゅうかどがしん
(毒氣の中、わが身を過して済度下さい)

毀厄之中過度我身きやくしちゅうかどがしん
(毀厄の中、わが身を過して済度下さい)

五危六害之中過度我身ごきろくがいしちゅうかどがしん
(五急六害の中、わが身を過して済度下さい)

五兵六舌之中過度我身ごへいろくぜつうしちゅうかどがしん
(五兵六舌の中、わが身を過して済度下さい)

厭魅之中過度我身えんみしちゅうかどがしん
(厭魅の中、わが身を過して済度下さい)

百病除癒百びょうじょゆ所欲随心しょよくずいしん急急如律令きゅうきゅうにょりつりょう

 
要約すると、
「この世で起こる様々な困難は
 まず我が身を通してからにして下さい。
 全て私が引き受けますので、
 国民をお守り下さい。」という意味で、
天皇陛下は、何よりも先ず、自らを捧げ、
神々へ国民の安泰を祈っているのです。
 

「四方拝」の始まり

宇多天皇の御代に定着
四方の神社を拝す「四方拝」(しほうはい) は、
『日本書紀』などの文献上によると、
皇極(斉明)天皇の時代から見られますが、
現在行われている元旦の「四方拝」は、
平安前期の嵯峨天皇の御代に始まったとされ、
宇多天皇の御代に定着した行事とされます。
 
『宇多天皇御記』にある
寛平2(890)年に行われた記録が
元旦の「四方拝」の最古のもので、
「四方拝」に先立って、
「毎朝御拝」を始めていることが分かります。
 
 凡自我公、崇敬神明、不懈一日、
 毎朝先拝伊勢大神宮、
 次拝内侍所、次四方神等
 仍於毎朝、不忘此儀
およそ私が即位してから、神々を崇敬し、
一日たりとも祈りを怠ったことはない。
毎朝まず伊勢大神宮を拝み、
次に内侍所を拝み、次に四方の神々を拝む。
ゆえに毎朝、この祈願の儀礼を忘れること
はない。
(『宇多天皇御記』仁和三年十一月十七日)
 
 
ただ、平安時代の「四方拝」は、
これは「神道」の行事と言うよりも、
「陰陽道」(おんみょうどう) の色合いが
濃いものであったようです。
天皇は清涼殿 (せいりょうでん) の前庭に降り立ち、北極星・北斗七星に向かって拝礼した後、
四方の諸神を拝しました。
 
陰陽道(おんみょうどう)
「陰陽道」(おんみょうどう) はChinaで生まれた
道教の陰陽五行説を基礎として、
自然崇拝や古神道の考え方も取り入れて、
日本で成立したもので、
単なるおまじないの類ではなく、
暦法や天文学、算額などの自然科学も
混ぜ合わせながら形作られてきた思想体系で、
我が国の政治、宗教、文化に
多大な影響をもたらしてきました。
 
平安時代、陰陽師は科学者とされ、
医師と合わせて「医陰両道」と並び称される
存在でした。
 
北辰信仰(ほくしんしんこう)
「陰陽道」にとって重要な考え方の一つが
「北辰信仰」(ほくしんしんこう) です。
 
天体の中でただひとつ動くことのない
「北極星(=北辰星)」を
宇宙の根源の大霊として高貴な星として崇め、
「北極星」を補佐し万物に恵みを与える
「北斗七星」も神格化し、
妙見菩薩みょうけんぼさつ天之御中主大神あめのみなかぬしのおおかみ鎮宅霊符神ちんたくれいふしん
同一視され信仰されてきました。
 
江戸時代までの天皇が、
即位の儀式のみで着用した
China風の「袞衣」(こんえ) の背には、
北斗七星が刺繍されていたほど、
「北辰信仰」は重視されていたのです。
 
平安期以降
他の宮中祭祀は、摂関や神祇伯が
代拝することが多くなりましたが、
「四方拝」の代拝は行われませんでした。
これは天皇本人の守護星や父母に対する拝礼であったためです。
 
また15世紀後半に起こった
「応仁の乱」(1467-1477)により
一時中断を余儀なくされましたが、
後土御門天皇の御代、
文明7(1475)年に再興されると、
19世紀後半の孝明天皇の時代まで
京都御所の清涼殿で行われました。
 
安土桃山時代
安土桃山時代になると、豊臣秀吉により、
陰陽師の弾圧や迫害が始まり、
陰陽道は一気に力を失っていき、
その代わりに神道色が強くなっていきました。
 
明治時代以降
明治時代以降は、
それまであった道教の影響である
「北辰信仰」などは排除され、
「神道の祭祀」として再構成され、
国の行事「四方拝」として行われ、
現在も受け継がれています。
 
現在では個人でも「四方拝」を取り入れ、
元旦に家庭で「四方拝」を行なっている方も
いらっしゃるようです。