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オランダ正月

「オランダ正月」は、
江戸時代、長崎の出島在住のオランダ人達や、
江戸の蘭学者達によって行われた、
太陽暦(グレゴリオ暦)で祝った正月のことを指します。
 
長崎出島のオランダ商館では、
太陽暦(西暦)の1月1日に盛大な祝宴が催されました。
 

 
日本からは通詞(通訳)や奉行所の役人らが招かれましたが、
「オランダ 料理にはほとんどをつけなかった」と
オランダ人の日記には記されています。
そして、オランダ料理は
「薬」として諸病に効能があるとされていたため、
出島の門外に待たせていたた家臣に持ち帰らせたといいます。
 

 
 
そのうち、日本人のオランダ語通詞(通訳)達が
自宅でオランダ正月に西洋料理をふるまうようになりました。
 

 
蘭学者で桂川甫周の実弟の森島中良(もりしま ちゅうりょう)
天明7(1787)に刊行した『紅毛雑話』(こうもうざつわ)によると、
  • 「ラーグー」        (鶏の挽肉と椎茸・ネギの煮込み)
  • 「ロストルヒス」      (鯛の塩焼き)
  • 「フラートハルコ」     (豚の腿肉の丸焼き)
  • 「ケレヒトソップ」     (伊勢海老のスープ)
  • 「タルタ」         (野菜のパイ)
  • 「プラートルエントホーゲル」(鴨を丸ごと煮たもの)
  • 「ハルトペースト」     (鹿の腿肉の丸焼き)
  • 「ヲぺリィ」        (クッキー)
などが供されたようです。
 
『紅毛雑話』(こうもうざつわ)とは、
オランダ人に聞いた話、
オランダの書に記してあった話という意味で、
オランダの歴史、風俗などだけでなく、
アムステルダムから
フランス、スペイン、アフリカ南端を経て
日本へ至る海路や通過する国々の事情などが
記されているそうです。

 
 
早稲田大学図書館には、
津藩の画師・市川岳山(いちかわ がくざん)
日本初の太陽暦での元旦の祝宴「オランダ正月」を描いた
『芝蘭堂新元会図』(しらんどうしんげんかいず)があります。
 
この「オランダ正月」は、
寛政6(1794)年の閏(うるう)11月11日(西暦1795年1月1日)に
大槻玄沢の私塾「芝蘭堂」(しらんどう)
江戸の蘭学者達が集まって祝われたものです。
 
「オランダ正月」の背景には、
8代将軍徳川吉宗による洋書輸入の一部解禁以降、
蘭学研究が次第に盛んとなり、
この頃には「蘭癖(らんぺき)」(オランダかぶれ)と呼ばれた
オランダ文化の愛好家が増加していたことがあります。
 
 
図に寄せられている漢詩や漢文から、
描かれた29人の蘭学者の中には、
芝蘭堂の主人で蘭学を広めた大槻玄沢(おおつき げんたく)を中心に、
玄沢の師匠である前野良沢(まえのりょうたく)
わが国最初の蘭日辞書『波留麻和解』(ハルマわげ)
刊行した稲村三伯(いなむら さんぱく)
銅板画の洋風画表現に成功した司馬江漢(しば こうかん)
杉田玄白の養子・杉田伯元(はくげん)
玄沢や玄白らに師事し、
オランダ流の内科を興した津山藩医・宇田川玄随(うだがわ げんずい)
玄白らと『解体新書』翻訳社中に当初から参加し、
「天性穎敏(えいびん)逸群の才」と評された
桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)
甫周の弟で『蛮語箋』(ばんごせん)を著した
森島中良(もりしま ちゅうりょう)
 
この宴席の特別ゲスト・大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)
床の間の前中央で、
ロシア文字が書かれた一枚の紙を手にしています。
ロシアからの帰国後3年目にこの宴に招かれたことになります。
 

 
絵を描いた市川岳山も含まれています。
 
因みに、芝蘭堂の「オランダ正月」は
大槻玄沢の子・盤里が没した1837年まで44回開かれました。