「オランダ正月」とは、
江戸時代、長崎の出島に在留のオランダ人達や
江戸の蘭学者達によって
オランダの生活様式と習慣に従って行われた、
太陽暦(グレゴリオ暦)で祝った正月のことを指します。
出島での「阿蘭陀正月」(おらんだしょうがつ) が
いつ頃から行われたのかは
正確には分かりませんが、
寛文3(1663)年頃から
商館長の日記に記録が見え始め、
次第に年中行事化していったようです。
江戸幕府は、寛永13(1636)年、ポルトガル人によるキリスト教の布教を禁止するために、
長崎の有力な町人に命じて岬の突端に
人工島を築き、ポルトガル人を収容しました。
この島が「出島」です。
「鎖国令」によりポルトガル船来航禁止されると
出島は一時、無人の島となりましたが、
寛永18(1641)年、平戸のオランダ商館が出島に移転。島内にはオランダ商館員の居宅・倉庫等数十棟が建ち、家畜を飼い、珍しい植物が植えられていました。約220年後の安政6(1859)年に出島和蘭商館が廃止され、それ以降、出島周辺の埋め立てが進み、明治37(1904)年にその姿を消しました。
大正11(1922)年10月12日、出島は「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。
この日招かれた日本人は、
長崎奉行所の役人、町年寄、出島乙名 (おとな)、
オランダ通詞などでした。
ただオランダ人の日記には、
「オランダ料理にはほとんどをつけなかった」
ものの、オランダ料理は「薬」として
諸病に効能があると思われていたために、
出島の門外に待たせていた
家臣に持ち帰らせていたそうです。
出島の和蘭商館は、長崎奉行の管轄下に置かれ
長崎町年寄の下の出島乙名 (でじまおとな) が
島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の
荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、
オランダ人の日用品購買の監督を行い、
オランダ人と直接交渉しました。
この「阿蘭陀正月」(おらんだしょうがつ) が
日本人の通詞達の間にも広まり、自宅で
「阿蘭陀正月」に西洋料理を振舞うように
なりました。
蘭学者・大槻玄沢 (おおつきげんたく) も
長崎遊学中に招かれて、長崎出島の通詞・
吉雄耕牛 (よしおこうぎゅう)宅で開かれた賀宴に
招かれています。
その大槻玄沢は、長年の念願が叶って、
長崎から江戸にやって来たオランダ人と
初めて会うことが出来た寛政6(1794)年に、
「オランダ正月」を計画、
玄沢が江戸に開いた蘭学塾「芝蘭堂」(しらん) に太陽暦で正月を祝おうと、
西暦1795年1月1日に当たる
寛政6(1794)年閏11月11日に同志を招いて
「新元会」(しんげんかい) を催しました。
これが江戸における
「オランダ正月」の始まりです。
以後、毎年「冬至」より第11日目に
賀宴を開くのが恒例となり、
玄沢の子、玄幹 (げんかん) が没する
天保8(1837)まで44回も続きました。
早稲田大学図書館には、
津藩の画師・市川岳山(いちかわ がくざん)が描いた
第1回『芝蘭堂新元会図』があり、
当日の模様を知ることが出来ます。
テーブルの周りには、主人の大槻玄沢を始め、
名立たる学者が29人が勢揃いしています。
玄沢の師匠である前野良沢(まえのりょうたく)、
我が国初の蘭日辞書『波留麻和解』(ハルマわげ)を
刊行した稲村三伯(いなむら さんぱく)、
銅板画の洋風画表現に成功した
司馬江漢(しば こうかん)、
杉田玄白の養子・杉田伯元(はくげん)、
玄沢や玄白らに師事し、蘭流の内科を興した
津山藩医・宇田川玄随(うだがわ げんずい)、
玄白らと『解体新書』翻訳中に当初から参加し、
「天性穎敏 (えいびん) 逸群の才」と評された
桂川甫周(かつらがわ ほしゅう)と
甫周の弟で『蛮語箋』(ばんごせん)を
著した森島中良(もりしま ちゅうりょう)、
絵を描いた市川岳山も含まれています。
そしてこの宴席の特別ゲストは
ロシアから帰国して3年目の大黒屋光太夫。
この頃、光太夫は、江戸で軟禁状態でしたが、
ロシア語が話せたので招待されたのでしょう。
床の間の前中央で、ロシア文字が書かれた
一枚の紙を手にしています。
テーブルの上には
ナイフとフォークがセットされ、
ワイングラスのような物も見受けられます。
蘭学者で桂川甫周の実弟の
森島中良(もりしま ちゅうりょう)が
天明7(1787)に刊行した
『紅毛雑話』(こうもうざつわ) によると、
この日のメニューは次のようなものだった
ようです。
・「ラーグー」
(鶏の挽肉と椎茸・ネギの煮込み)
(鶏の挽肉と椎茸・ネギの煮込み)
・「ロストルヒス」
(鯛の塩焼き)
(鯛の塩焼き)
・「フラートハルコ」
(豚の腿肉の丸焼き)
(豚の腿肉の丸焼き)
・「ケレヒトソップ」
(伊勢海老のスープ)
(伊勢海老のスープ)
・「タルタ」
(野菜のパイ)
(野菜のパイ)
・「プラートルエントホーゲル」
(鴨を丸ごと煮たもの)
(鴨を丸ごと煮たもの)
・「ハルトペースト」
(鹿の腿肉の丸焼き)
(鹿の腿肉の丸焼き)
・「ヲぺリィ」
(クッキー)
(クッキー)
『紅毛雑話』(こうもうざつわ)は、
オランダ人に聞いた話、
オランダの書に記してあった話という意味で、
オランダの歴史、風俗などだけでなく、
アムステルダムから
フランス、スペイン、アフリカ南端を経て
日本へ至る海路や通過する国々の事情などが
記されているそうです。
8代将軍・吉宗による洋書輸入の一部解禁以降、
蘭学研究が次第に盛んとなり、
この頃には「蘭癖 (らんぺき)」(オランダかぶれ) と呼ばれたオランダ文化の愛好家が増加して
いました。
大槻玄沢 (おおつきげんたく) は、
宝暦7年(1757)9月28日、
陸奥国磐井郡中里 (現在の岩手県一関市) の
代々医者の家柄に生まれました。
13歳の時から医学を学び、
安永7(1778)年江戸に出て、
杉田玄白に師事しオランダ医学の研究を始め、
前野良沢についてオランダ語を学び、
天明5(1785)年に長崎に遊学して
更にオランダ語の学識を深めました。
天明6(1786)年に仙台藩医となり
江戸京橋に移り住むと、
ここに日本最初の蘭学塾である
「芝蘭堂」(しらんどう) を開き、橋本宗吉・
稲村三伯・宇田川玄真ら多くの蘭学者を育て、
蘭語の初学者のための手引書『蘭学階梯』を
刊行しました。
また、師・杉田玄白の後を継いで、
寛政10(1798)年には、
『解体新書』の重訂をほぼ完成し、
後に『重訂解体新書』として出版しました。