「お茶漬け」と言ってまず思い浮かべるは、

ご飯の上にパラパラと振りかけ
お湯を注ぐだけで出来上がり。
サラサラと短時間で食べられる上、
小腹はしっかり満たされる。
日本人にとっては「カップメン」に並ぶくらい
ポピュラーなインスタント食品ですね。

5月17日はそんな「お茶漬け」の日です。
平成24(2012)年、永谷園の看板商品
発売60周年を記念して制定しました。
日付は、「永谷園」のルーツであり
煎茶の創始者・永谷宗七郎氏の偉業を称えて、
その命日の安永4(1775)年5月17日に因みます。
「永谷園のお茶漬け」は、
昭和27(1952)年に発売されました。
この「お茶づけ海苔」の味づくりから
パッケージデザインの全てを作り上げたのは、
永谷宗七郎から数えて10代目で、
現在の「永谷園」の創業者である
永谷嘉男 (ながたに よしお) です。
江戸中期、山城国湯屋谷村 (京都府宇治田原町)で
煎茶の製法を開発した永谷宗七郎以降、
永谷家は代々、京都で由緒あるお茶屋を
営んでいました。
明治38(1905)年、永谷嘉男の祖父が上京して
愛宕町(現在の東京都港区西新橋)に
お茶屋ののれんを出します。
そして嘉男の父である9代目・永谷武蔵は、
東京で茶舗「永谷園」を営む傍ら
「昆布茶」や「アイスグリーンティー」など
様々なアイデア商品を開発し、
中でも「海苔茶」は評判となりました。
海苔茶
抹茶に調味料と海苔を加えたもので、
お湯を注いでお吸いもののように飲む
そして昭和27(1952)年、9代目・永谷嘉男が
この「海苔茶」に改良を加えて誕生したのが
「お茶づけ海苔」です。

敗戦後、永谷園復興を担っていた嘉男は、
お茶ではなく新しい商品での永谷園復興を
考えていました。
ある日、小料理屋で〆にお茶漬けを食べた際、
「こんな美味しいお茶漬けを
家でも食べられたらいいのに」
そう思った嘉男の脳裏に、
父が作った「海苔茶」が甦ります。
「そうだ。なにもお茶から離れる必要はない。
『海苔茶』をご飯にかけたら、
美味しいお茶漬けが出来るんじゃないか」
この発想が全ての始まりでした。

筵の上に古新聞を敷いて、
お茶屋にある材料を吟味し、配合を研究し、
組み合わせて作り上げていきましたが、
何か一つ足りない・・・。
その時思い出したのは、京都で食べられてた
あられにお湯をかけた「ぶぶ漬け」や
おかきを入れた「かきもち茶漬け」でした。

「あられを入れたら
香ばしい風味もプラスできる」と考え、
早速、あられを海苔茶づけに取り入れます。
吸湿性のあるあられを入れたことで、
海苔が湿気るという問題も解消するという
思わぬ効果もありました。
こうして「お茶づけ海苔」は完成したのです。
「江戸風味 お茶づけ海苔」という商品名で
漢字や平仮名のバランスにもこだわりました。
パッケージデザインはお茶づけから連想した
「江戸情緒」をイメージして、
歌舞伎の定式幕になぞらえた
黄・赤・黒・緑の縞模様が採用されました。
そして昭和27(1952)年、
晴れて「お茶づけ海苔」が販売されました。
価格は1袋10円と、公務員の給料が6千円の
時代でしたからかなりの高額商品でしたが、
戦後の食糧事情が安定し
食生活も「量から質」への転換期であったこともあり「お茶づけ海苔」は評判となりました。

昭和31(1956)年の商標登録に伴い、
「永谷園のお茶づけ海苔」に変更されました。
昭和45(1970)年、初のバリエーション商品
「さけ茶づけ」を発売すると
味のバリエーションが増えたことにより、
新たな顧客を獲得することに成功したため、
永谷園は次々と新商品を投入していきます。
その2年後には「梅干茶づけ」、
昭和51(1976)年には「たらこ茶づけ」、
平成元(1989)年には「わさび茶づけ」を発売。
これらは現行ラインナップ商品として
多くのファンに愛されて続けています。

キャラクター商品を投入したのも早く、
昭和52(1977)年には、サンリオの
「リトルツインスターズ (キキララ)」を起用。
この流れは今も続いています。



そして令和6(2024)年、
永谷園のお茶づけは進化を遂げました。
フリーズドライのごはんが入った
「カップのお茶づけ」です。
ごはん入りだから、カップにお湯を注ぐだけで
3分でいつでもどこでもお茶づけを楽しめます。

更に「永谷園」のヒット商品は
「お茶づけ海苔」だけではありません。
主なところだけでも、
昭和39(1964)年の「松茸の味お吸いもの」、

昭和49(1974)年の「あさげ」、

昭和52(1977)年の「すし太郎」、

昭和56(1981)年の「麻婆春雨」、

平成元(1989)年「おとなのふりかけ」などと、

「お茶づけ海苔」同様、
ロングセラーを続けている商品も
少なくありません。