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コツコツと

目黒のたけのこ

 
 
一般的に「たけのこ」と言えば、
「孟宗竹」(もうそうちく)のことを指します。
 
 
「孟宗竹」はChina江南地方原産の品種で、
日本には江戸時代の中期に、琉球へ、
更に琉球から薩摩へと伝えられました。
『江南竹記』(1837年)という書物によると、
元文元(1738)年3月、薩摩藩4代藩主・島津吉貴が、
「孟宗竹」を鹿児島の御殿に植えたのが
その起源だそうです。
 
 
江戸には、寛政(1789~1801)の初め頃、
薩摩から伝えられ、移植されています。
最初に「孟宗竹」が植えられたのは、
現在の大久保辺りのようです。
「孟宗竹」の淡白な味わいは
江戸っ子の嗜好によく合ったことから、
落語になるほど人気の食材となり、
江戸各所に「孟宗竹」の栽培は広まり、
広く筍の生産が行われるようになりました。
 
落語『たけのこ』
武士が家来の可内(べくない)に昼飯のおかずを尋ねると、「たけのこ」と答えました。
更に、どうやって手に入れたのか尋ねると、
「隣家のたけのこが垣根を越えて庭に生えて
 来たのを切り取って、これを主人の食膳に
 出そうと支度をしている」と答えます。
武士は「盗泉の水を飲まずとは古人の戒め、
隣家のものを無断にて掘り取るとは何事か」と咎めだてはしましたが、実はたけのこは武士の大の好物。
そこで「『不埒にもご当家様のたけのこが、
わが家の庭に忍び込みました故、無礼千万と
手討ちにいたしました』と言って来い。
鰹節のダシを取っておくから」と言います。
可内が隣家へ行ってこの口上を述べると、
隣家の方が一枚上手で「それはごもっとも、
しかし当家で生まれたたけのこが不憫に思いますので、亡き骸はこちらへ引き渡しを願いたい」
と応じます。
可内は戻って武士にいきさつを伝えると、
武士も負けじと「もう一度行って、『亡き骸は当方にて手厚く原(腹)の中へ葬った。骨は明日、高野(厠)に納まるでしょう』と言って、剥いだ竹の皮を形見に渡して来い」と言います。
再度、可内は隣家へ行って、「これはたけのこの形見でございます」と、皮をバラバラ。
隣家の主人は「もはや死骸は葬られたか。
やれ可哀いや。かわ(皮)いや(嫌や)、皮嫌や。」
 
 
 
品川や目黒では、
築地鉄砲洲で幕府御用の回船問屋をしていた
山路治郎兵衛勝孝が
安永年間(1772-81)に戸越村(現・品川区)に
別邸を建てた折、同地に特産物がないことから
寛政元(1789)年に薩摩から「孟宗竹」を入手し、
栽培化に努力しました。
 
戸越村後地(うしろじ)
(現在の品川区小山一丁目、後地小学校そば)に
山路治郎兵衛勝孝の子孫が建てた
「孟宗筍栽培記念碑」には、次の句が刻まれて
います。
「櫓も楫も 弥陀にまかせて 雪見哉」 (釈竹翁)
 
 
目黒の周辺は、
江戸では比較的気温に恵まれ、
冬でも過ごしやすく、
南方から来た「孟宗竹」の
生育に適していたことから、
やがて目黒は江戸近郊第一の筍の産地となり、
いわゆる「目黒のたけのこ」として
知られるようになりました。
 
 
その後「目黒のたけのこ」は、
江戸中に知られた寺院で、
江戸っ子の行楽地としても人気のあった
目黒不動尊の茶店や山門前の料亭で
季節の筍飯を売り出したところ有名になり、
「たけのこは目黒に限る」と云うことで
「目黒のたけのこ」として有名になりました。
 
 
なお現在の筍飯は、
筍を炊き込んだ味付け飯が一般的ですが、
江戸時代の飯・粥・鮓など米の調理だけの料理書
『名飯部類』(めいはんぶるい)には、
次のように筍飯の作り方が載っています。
   
筍の柔らかな部分を塩ゆでにしてから
小さく切る。
飯は普通に炊き、沸騰がおわり弱火にする時に
飯の上に筍を置き炊き上げる。
筍飯を器に盛り、吸物味のだし汁をかけ、
浅草海苔や山椒を添える。
 
 
「太く、柔らかく、おいしい」と
三拍子揃った「目黒のたけのこ」は、
「目黒式」と言われる
手のかかる独特の栽培法で行われたため、
タケノコ栽培農家にとっては、
かなりの収入だったようです。
「目黒のたけのこ」栽培の最盛期は大正時代で、
昭和の初め頃までは、
目黒にも竹林があちこちにありました。
 
 
ですが、「目黒のたけのこ」発祥の地である
品川の竹林は大正時代にその多くが宅地化され、
目黒の竹林も関東大震災を機に切り開かれ、
今では、「すずめのお宿緑地公園」などに
わずかに残るだけとなりました。
 
 

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