6月29日は「佃煮の日」です。
正保3(1646)年6月29日に
「佃煮」の発祥の地・東京佃島に
「住吉神社」が創建されたことや
この「29」日を「ツク」と語呂合わせをして、
「全国調理食品工業協同組合」が
平成15(2003)年に制定しました。
佃煮(つくだに)とは
「佃煮」(つくだに) は、
小魚・小海老・貝類・海苔・昆布などの水産物や
蕗・葉唐辛子・豆などの農産物などを
関東風の濃い口醤油の味を利かせ、
砂糖、飴、味醂などで甘辛く煮詰めた
加工食品で、日持ちの良い保存食品です。
余り物の小魚類から出発した「佃煮」ですが、
今では実に数多くの種類があり、
「全国調理食品工業協同組合」によると、
主な佃煮だけで118種類の佃煮があると言われ、この他に地方の特産品も色々あります。
更に「混合佃煮製品」という
2、3品を一緒に煮た「佃煮」もありますし、
例えば一口に「昆布佃煮」と言っても、
塩昆布・角切昆布・昆布巻・しそ昆布など
多くの種類があります。
その他にあめ煮、でんぶ、しぐれ煮など、
形状や製造方法により多種に分かれるため
これらを数えれば「佃煮」の種類は
かなりの数になります。
そんな「佃煮」は、江戸時代、
現在の東京都中央区佃 (つくだ) で生まれた
東京の名産品で、東京土産としても有名です。
この名物を生み出すきっかけを作ったのは、
実は江戸という城下町を
世界一の大都市に成長させる土台を作った
徳川家康だったのです。
佃島(つくだじま)
摂津国・佃
東京都中央区佃 (つくだ) は、
天正18(1590)年に関東への移転を命じられた
徳川家康の命を受けて、
摂津国・佃(現・大阪市西淀川区佃)から
江戸へと移り住んだ漁師達が作った街です。

話は江戸開府以前に遡ります。
天正10(1582)年6月2日未明、織田信長が
京都本能寺で明智光秀のクーデター
「本能寺の変」により亡くなります。

この時、家康は、翌日に予定されていた
信長との会合を控えて、
商業で栄える堺に滞在していました。
「京や堺の辺りを見物して回るとよい」と
信長から提案されて、長谷川秀一 (竹丸) というお供までつけてもらったので、
それに従ったのです。
「信長死す!」の一報を受けた家康は、
討手から逃れるため、急遽、堺脱出を試みます。
居場所もルートも光秀側には知られている上、
この時にお供として連れてきていたのは、
重臣30人程だったためです。

ところが、界隈は川や海が広がり、
淀川の分流・神崎川も運悪く大水で
行く手を阻まれます。
その時、漁船を出して家康一行を助けたのが、
淀川の中州に本拠を置いていた
摂津国佃村(大阪市西淀区佃町)の漁民達でした。
彼らは摂津一体の水路や地理に明るく、
家康は彼らの助けもあって、九死に一生を得て
三河国の岡崎城に戻ることが出来ました。
摂津国佃村は古代は「田蓑島」(たみののしま) と
呼ばれていたとされ、「佃」の地名は、
家康が漁業の傍ら田も作れとの命により、
村名を田蓑から佃へと改めたという説が
あります。
但し、貞観年間 (859-877) には既にそのように
呼ばれていたとする伝承もあります。
江戸に下る

慶長年間(1596-1615)、
徳川家康の江戸入府に当たり、
江戸の漁業を盛んにするため、
摂津国佃村の名主・森孫右衛門一族7名と
漁民33名を江戸に呼び寄せ、
江戸日本橋の東側に移住させました。
そして 江戸近辺の海や川なら
どこでも自由に漁業が出来るという特権が
幕府から与えられ、
その代わりに将軍へ白魚を始めとする
魚介類を献上する役目が与えられました。

江戸の前海は遠浅の海で
プランクトンが豊富だったことから、
小魚類が大量に獲れ、
白魚を将軍家に献上した残りの魚は
日本橋の魚市場へ出荷しました。
ところが、日本橋の魚市場が繁盛してくると、拡張せざるを得なくなったことから、
寛永年間 (1624-1644) に
隅田川河口の石川島の南側の約200m四方の
干潟をもらい受けて埋め立て、
故郷に因んで「佃島」と名付けました。
そして「佃島」は漁師町として発展し、
進んだ漁業技術を上方から江戸にもたらし、
更に日本橋の魚河岸の基礎も築きました。
そして正保3(1646)年の6月29日には、
この「佃島」を鎮護する社として
郷里・佃村の産土神の御神霊を祭祁した
「住吉神社」を建立しました。
「佃島」は江戸湊の入口に位置することから、
「住吉神社」は、海運業、各問屋組合を始め、
多くの人々から海上安全、渡航安全の守護神と
して信仰を集めました。
更にその後、月島、勝どき、豊海、晴海が
埋め立てられると、それらの地域の
産土神としても信仰されるようになりました。
「佃煮」の誕生

江戸の前海はプランクトンが豊富なので、
魚介類が多く、小魚類も余るほど獲れました。
水揚げが多く、余ったからといって、
たとえ雑魚でも捨てるのは勿体ない。
そこで漁師達が考えたのが「煮しめ」でした。
最初は、保存食用にと
小魚を塩煮した程度のものでした。
その後、江戸の町に醤油も出始めたため、
日持ちを良くするために、
醤油を中心に味醂や砂糖、香辛料などを用いて
じっくりと時間をかけて煮込んでみると、
これが実にご飯の味を引き立てたのです。
そこで「佃煮」というネーミングで
江戸市中に売り出したところ
値段が手頃な上に美味で、
冷蔵庫が無かった時代に、
甘辛く煮た佃煮は日持ちがしたので、
大いに評判を呼び大ヒット。
江戸っ子の常備菜となりました。
土産物として全国区に

余り物の小魚類から出発した「佃煮」は、
参勤交代で帰国する大名の家臣達が
保存が利いて美味しい佃煮を
土産として持ち帰ったことから、
江戸名物として知名度が一気に上がりました。
地域限定の名前であった「佃煮」は、
現在は日本中津々浦々に広まって
食べ物の一般名称へと成長したのです。
江戸時代から連綿と引き継がれている
佃煮店は現在三軒で、
いずれも東京都中央区佃にあります。
今も佃煮を売っています。
この地域は戦災を免れた地域であるため、
古い町並みの情緒も残っています。
「佃島」から「佃」に

明治期以降、「隅田川」の河口付近では、
土砂の流入による浅瀬化が進み、
船の運行に支障が出るようになっていました。
また、民間・行政から築港の要望もあって、
東京府(当時)では、明治16(1883)年以降、
隅田川河口付近の水底の堆積物を取り除く
「東京湾澪浚」(みおさらい) を実施して、
大量に出た浚渫土を活用して、
「東京築港」を前提として浚渫と埋立てを行い
月島、新佃島などが築島され、
現在に至る町域が確立しました。

更に昭和39(1964)年、「佃大橋」が創架され、
佃島・月島の間に流れていた佃川が埋め立てられ2つの島は地続きになりました。
その後、昭和42(1967)年3月1日の
住居表示の実施により、
「佃島」から「佃」に変更されました。
それまで川と水路に囲まれていた「佃島」も
佃大橋側が閉ざされるも、 三方は水に囲まれ、
島が現存しています。