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16歳に達した男女は6月16日「嘉祥の儀」の日に「お月見」をする

 

江戸中期以降の公家の家では、
旧暦の6月16日「嘉祥の儀」の夜に、
16歳に達した男子は「元服」の際に、
袖の脇を塞ぐ「脇塞」(わきふさぎ)
女子は「裳着」(もぎ) と一緒に
「鬢批」(びんそぎ) を行い、
それを祝して「お月見」を行いました。
 
 
これは現代の「成人式」のような儀式で、
16日の夜、中央に赤い丸印が付けられた
大きな薯蕷饅頭を素焼きの皿に載せて月に供え
その饅頭の中心に萩の箸で穴を開けて、
その穴から「十六夜の月」をのぞき見るという
不思議な風習です。
 
「お月見」といっても6月ですから
「中秋の名月」を愛でる訳ではありません。
また「中秋の名月」では、
「茄子」に穴を開けて月を見ますが、
ここでは「大きな薯蕷饅頭」です。
直径7寸 (約21cm) と書かれたものもあるほど、
薯蕷饅頭は大きいものだったため、
月を見るために手に取った時は、
結構重かったのではないでしょうか。
 
 
蔵人の日記『大江俊光記』には、
元禄3(1690)年6月16日、
16歳の東山天皇が「深曾木御月見」(ふかそぎのぎ) の祝儀をしたと記されています。
 
 
『明治天皇紀』には
慶応3(1867)年6月16日、
明治天皇がこの「お月見」をされたことが
記されています。
 
「十六日 月見、帯結初並びに袖留の儀を
 行はせらる、
 (中略)月見後三献の儀あり、
 但し諒闇 (りょうあん) 中なるを以て
 祝宴を行なはせられず」とあります。
 
「諒闇 (りょうあん) 中」とあることから、
父宮の孝明天皇が崩御されたお悲しみの中で
行われた「成年の儀式」であったことが
分かります。
「諒闇」(りょうあん)
「諒」は真 (まこと)、「闇」は謹慎の意で、
天皇が服する「喪」のうち、最も重いもので
天皇が父母の崩御に当たり「喪」に服する
期間のことです。期間は一年。
 
「元服」よりも早い満14歳で
践祚 (せんそ) された明治天皇は、
立太子礼を経ずに天皇の位に就かれました。
 
突然の皇位継承は、少年帝の御肩に
どれほどの重みを負わせたのでしょうか。
成年を迎え、月を眺められた時の
明治天皇のお心持ちは如何なるものだったのでしょうか。
 
 
ところで御所菓子商であった「虎屋」には、
仁孝天皇の第8皇女・和宮親子内親王が
万延元(1860)年6月16日に「御月見御用」として「月見饅」を注文された記録が残っている
そうです。
 
 
注文記録には、水仙饅頭100個、
大焼饅頭200個、椿餅30個などの菓子に、
主役の月見饅頭は1個納められています。
和宮はこの時、現在の年齢でいうとまだ14歳。(丙午の生まれを忌み、前年生まれとしていた)
翌年には京都を離れ、江戸へ嫁ぎます。
 
 
政略結婚によって
夫婦となった家茂と和宮でしたが、
二人の仲は睦まじかったそうで、
幕府の公式記録『続徳川実紀』には、
長州征伐のため大坂城に滞陣していた家茂に、
江戸の和宮から落雁などの菓子が届けられたと
記されています。

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