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稽古始めは「6歳の6月6日」

日本では古来より、
6歳の6月6日にお稽古を始めると
 上達しやすい」と言われてきました。
 
 

稽古始めの日

 
器や舞踊など伝統芸能の「稽古始め」は
6歳の6月6日が良いとされ、
歌舞伎、能、狂言の世界では
「初稽古」(はつげいこ)と呼んで、
その日に稽古を始めるべしとしています。
 
 
今でも6月6日を「お稽古の日」とする風習は
残っており、正式に「記念日」として定められているものもあります。
 
 
 

6歳の6月6日の由来

世阿弥『風姿花伝』
 
その由来は、室町時代に能を大成させた
世阿弥(ぜあみ)が記した『風姿花伝』(ふうしかでん)
という能の理論書の中にあります。
 
『風姿花伝』(ふうしかでん)は、
世阿弥(ぜあみ)の父である観阿弥(かんあみ)
教訓をもとに書かれたもので、七巻の伝書から
なります。
 
【風姿花伝の構成】

第一 「年来稽古条々」
    (ねんらいのけいこのじようじよう)

第二 「物学条々」
    (ものまねのじようじよう)

第三 「問答条々」
    (もんどうのじようじよう)

第四 「神儀云」 
    (じんぎにいわく)

第五 「奥義云」 
    (おうぎにいわく)

第六 「花修云」 
    (かしゆにいわく)

第七 「別紙口伝」
    (べつしのくでん)

 
世阿弥は『風姿花伝』(ふうしかでん)
年齢に応じた稽古の方法について
説いているのですが、
その冒頭において
「この芸において、
 おほかた、七歳を以て初めとす」
つまり、
「能の芸は、おおよそ、数え年で7歳
(満年齢の6歳)から稽古を始めると良い」と
説いているのです。
 
風姿花伝第一「年来稽古条々」の「七歳」
 
<原文>
一、この芸において、
  おほかた、七歳をもてはじめとす。
  このころの能の稽古、
  必ず、その者、自然と為出だす事に、
  得たる風体あるべし。
  舞・はたらききの間、音曲、
  もしくは怒れる事などにてもあれ、
  ふと為出ださんかかりを、うち任せて、
  心のままにせさすべし。
  さのみに、よき、あしきとは教ふべからず。
  あまりにいたく諫むれば、
  童は気を失ひて、
  能、ものくさくなりたちぬれば、
  やがて能は止まるなり。
 
  ただ音曲・はたらき・舞などならでは
  させすべからず。
  さのみの物まねは、たとひすべくとも、
  教ふまじきなり。
  大場などの脇の申楽(さるがく)には
  立つべからず。
  三番・四番の、時分のよからむずるに、
  得たらん風体をさせすべし。
 
 
<現代語訳>
一、能楽の稽古は、
  だいたい七歳の時分に始めるのが良い。
  この頃の能の稽古というものは、
  ともかく自然に任せるという事が
  肝心である。
  どんな子でも、それぞれが
  やりたいようにやらせておくと、
  その自然に出てくるやり方の中に、
  必ず個性的な有様が見えてくるものだ。
  舞いや仕草の中に、
  また謡いにのせての所作はもとより、
  更には例えば怒気を含んだ
  鬼物の所作などの場合であっても、
  本人が何心もなく思いついて
  見せる動きなど、
  みなその子の好きなように、
  心のままにやらせておくのが良い。
 
  この時分には、「こうすると良い」とか
  「そうしちゃいけない」とか、
  事細かに教えるのはかえってよくない。
  あまり口うるさくあれこれと注意すると、
  子供というものはやる気をなくして、
  能なんて面倒くさいなぁと思って
  怠る心が出来るから、
  すなわちそこで能の進歩は行き止まりと
  なる。
  そうして、子供には、
  謡い、しぐさ、舞いという
  基礎的な事だけを教えて、
  それ以上のことはさせてはいけない。
  子供の中には、もっと手の込んだ
  写実的演技などもさせれば
  出来る者もいるけれど、
  あえてさようなことは教えぬほうが
  よいのだ。
  格の高い大きな場所での脇能
  (初番の神能)のようなものには
  出演させてはいけない。
  三番目の女の舞いを主眼とした能か、
  四番目の世話物の能あたりの、
  ちょうどよさそうな時分に、
  その子のもっとも得意とする役柄で
  出してやるのがよろしい。
 
歌舞伎界に浸透
 
江戸時代になると、世阿弥の考え方が、
歌舞伎界にまで浸透するようになりました。
更に「六歳の六月六日」という語呂の良い
六続きの言い回しが、頻繁に台詞として
よく使われるようになり、いつしか
「習い事を始めるなら、6歳の6月6日が良い」
と一般的に定着するようになったのです。
 
「指折り説」

また別の説としては、
「1、2、3、4、5、6……」と
指を折って数える仕草の中で、
「6」の時には「小指」が立つことから
来ているというものがあります。
「小指が立つ」つまり「子が立つ」ことから、
「子供が自立する」と捉えられるようになり、
「稽古始めは縁起の良い、6歳の6月6日」になったのだというものです。
 

「稽古」とは

 
「稽古」(けいこ)は、元々、
「古」(いにしえ)を「稽」(かんが)える、
つまり、昔のことを考え調べて、
今どうしたらよいかを正しく知るという
意味を表す漢語でした。
そこから「書物を読んで学ぶこと」という
意味になりました。
 
 
これが中世以降になると、学問以外に、
武道や芸道を学んだり習うことにも
「稽古」という言葉が用いられるように
なりました。
 
 
この「稽古」という言葉には、
動作を繰り返し行うことによって、
脳や体にやり方を染み込ませて
習得していく「練習」とは異なり、
先人の芸に関する考え方や、
作法、型などをよく考えて、
今の手法と比べて修練を積む、
つまり、常に運動の質を問い続けるという
技や芸に対する「心構え」が大切になります。
 
世阿弥も『風姿花伝』の中で、
「稽古はつよかれ、情識はなかれと也」
(稽古も舞台も厳しい態度で勤め、
 決して傲慢になってはいけない)
と記しています。
 
そして技や芸の修行の過程は、
そのままその人の「生き方」とも繋がり、
技や芸に対する「自己の確立」や
心の問題を理念、工夫していくことが
重要になってきます。
 

「稽古照今」
(けいこしょうこん)

四字熟語に「稽古照今」(けいこしょうこん)
いうものがあります。
この四字熟語の出典は『古事記』の序文です。
 
「過去の出来事や先人の教えから学び、
 現在の事象に照らし合わせて
 教訓を活かすこと。」という意味です。
 
  古(いにしえ)を稽(かんが)へて
  風猷(ふうゆう)を既に頽(すた)れたるに
  繩(ただ)し。
  今に照らして
  典教(てんきょう)を絶えむとするに
  補(おぎな)はずといふことなし。
 
<意訳>
  昔のことをよく振り返り、
  それを今の基準に照らすことで、
  既に廃れてしまった人間の考えを正し、
  失われかけた文献を補う、
  (そのために、この『古事記』を
   書き残しておきます)
 


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