うまずたゆまず

コツコツと

硫黄島(いおうとう)

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天皇・皇后両陛下は4月7日、小笠原諸島の
硫黄島を日帰りで訪問されました。
 
今回、天皇・皇后両陛下は
日本兵をしのぶ「天山慰霊碑」や
日米全ての戦没者の慰霊のために建立された
「鎮魂の丘」などで拝礼する他、
戦没者遺族らとの面会にも臨まれました。
天山慰霊碑てんざんいれいひ(日本戦没将兵慰霊碑)
昭和46(1971)年3月26日に厚生省 (当時)が
旧海軍の天山壕があった上に造った
日本戦没将兵の慰霊碑。
慰霊碑の側には納骨堂が
昭和60(1985)年4月に建立されており、
新たに発見された御遺骨が
本土の千鳥ヶ淵に納められるまで、
一時的にここに安置されます。
 
鎮魂の丘
昭和58(1983)年に硫黄島における戦闘で
戦没した全ての英霊を鎮魂するための
碑が東京都に建立され、この辺りの台地は「鎮魂の丘」と名付けられました。
「鎮魂」への思いを「水」、
「平和の祈念」を「花」で象徴したもので、
献水すると水が溢れ中央の導水路を伝って
花壇に注がれます。
碑には「鎮魂」の文字が刻まれ、
碑文は井上靖氏、由来文は山本健吉氏。
その左側には、歌人・折口信夫氏が詠んだ
詩を刻んだ碑があります。
「たたかひに果てにし人をかへせとぞ
     我はよばむとす大海にむきて」
 
 

平成のご訪問


平成6(1994)年2月12日から14日、
天皇・皇后両陛下(現在の上皇・上皇后陛下)が
小笠原諸島返還から25年を迎えたのを機に、
両陛下が以前から強く希望されていた
「硫黄島」のご訪問を実現されました。
 
輸送機とヘリコプターでの長旅により
「硫黄島」を訪れた両陛下は、
「天山慰霊碑」や「鎮魂の丘」で、
灼熱と水不足で苦しんだ将兵を慮り、
柄杓で水を汲み慰霊碑に献水されました。
 
そして両陛下は次の御製を詠まれました。
天皇陛下御製
 精魂を込め戦ひし人未だ
  地下に眠りて島は悲しき
 戦火に焼かれし島に五十年 (いそとせ)
  主なき蓖麻 (ひま) は生ひ茂りゐぬ
 
皇后陛下御歌
 銀ネムの木木茂りゐるこの島に
  五十年眠るみ魂かなしき
 慰霊地は今安らかに水をたたふ
  如何ばかり君ら水を欲りけむ

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硫黄島(いおうとう)

概略
「硫黄島」(いおうとう) は、東京都の区部から
南へ約1200km離れた洋上に屹立する火山島の
北硫黄島、硫黄島、南硫黄島の総称です。
 
「硫黄島」(いおうとう) は、
標高170mの摺鉢山 (すりばちやま) を中心に、
北東に広がる扇形の地形をした
東西8km、南北4kmの小さな火山島です。
 
島内は全体に地温が高く、
多くの噴気地帯、噴気孔があり、
異常な速さで島全体の隆起が続いており、
島内各所で噴火が発生しています。
 
「イオウトウ」?
「イオウジマ」?
「硫黄島」の呼称は現在「イオウトウ」です。
「イオウジマ」という呼ばれ方も
していたようですが、
戦前の島民の間では「イオウトウ」が
一般的だったことから、
国土地理院が旧島民の要望を受ける形で
平成19(2007)年に
「イオウトウ」に統一されました。
 

硫黄島の歴史

硫黄島の発見
硫黄島の島々は、16、17世紀頃から
ヨーロッパ人に知られていましたが、
上陸されることなく放置されていました。
 
明治22(1889)年6月頃から
小笠原群島の住民の田中栄次郎が、
漁業と硫黄採取を目的に硫黄島開拓が始め、
その後は、地熱を活かした農業に重点が移り、
サトウキビやコカ、レモン草の栽培が始まり、
その隆盛とともに人口も増加していきました。
 
日本領土確定
そして明治24(1891)年9月9日、
日本領土に編入されて、
東京府小笠原島庁の所轄となり、
北硫黄島・硫黄島・南硫黄島と命名されました。
その後、南硫黄島を除く2島は、
日本人により開拓が進みました。
 
戦前の硫黄島の生活
昭和18(1943)年4月の『小笠原島事情』によると
当時の島民は1018人(男533人、女485人)で、
運搬用の牛や食用の豚を家畜として飼い、
学校の先生達が作成した『島内新聞』があり、
年に一度、相撲大会を催して楽しみました。
人々は特別豊かではないものの、
苦労もないのんびりと暮らしてたのです。
 
硫黄島に戦火が迫って来た昭和19(1944)年7月、
島民に強制疎開の命令が下り、
扶養者のいない男子で高等科卒業以上
40歳以下の125名が軍属として徴用され、
うち81名が戦闘でなくなりました。
 

「硫黄島の戦い」開戦前

日本側の状況
サイパンとテニアンの陥落により、
サイパンとグアムにB29の滑走路が建設され、
日本の敗色は濃厚となりました。
 
この危機に対処するため、
中部太平洋方面の陸軍部隊を統括する第31軍が新設され、硫黄島を重要航空基地として、
難攻不落の要塞とすることを目指し、
様々な部隊を硫黄島に集結させました。
 
米国側の状況
それでも日本側はB29を1千機も撃破しました。
このB29は一基製造するのに
当時の金で60万ドル以上
(1940年の米国の名目GDPは1014億ドル
 なお2023年の名目GDPは27.72兆ドル)。
これ以上撃破されれば、米国も破産してしまう。
そこで硫黄島をB29の中間基地にすることを
計画しました。
 
栗林忠道中将、硫黄島に進出
 
様々な部隊が混雑していたことから、
これをまとめるために第109師団が編成され、
その師団長に栗林忠道中将が親補され、
昭和19年6月に父島に到着すると、
自ら指揮を執るべく司令部を硫黄島に移し、
米兵を島に上陸させ、
地下壕を掘って地下からこれを迎え撃つという
未曽有の作戦を発明しました。
 
この作戦を理解し戦える指揮官を求めて
人事を刷新し、
「歩兵戦の神様」と呼ばれた千田貞季少将、
高石正大佐、中根兼次中佐を呼び寄せました。
 
また満州から派遣された「バロン西」こと
西竹一中佐率いる戦車連隊も地下に潜らせ、
砲だけを外に出して、
敵が近づいたら不意を突いて砲撃し、
逆襲されぬうちに次の壕に移動するという、
独創的な戦法を生み出しました。
 
地下壕の完成

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栗林中将は、自ら工事を視察し、
一人一人の兵隊に親しく声を掛け労い、
時には恩賜の煙草を与えたりもしました。
また工事中は、上官が見回りに来ても
敬礼する必要はないことを通達しました。
更に将校も兵隊も全く同じ物を飲食し、
同じように苦しみを分かち合うことで
一体感が生まれ、僅か数か月で、
全長18.5kmにも及ぶ様々な工夫を施した
地下壕を完成させました。
後に、敵の米海兵隊指揮官ホーランド・M・スミス中将も
「ドイツ軍の地下防備を凌ぐもの」と
驚くほどの出来映えでした。
 
一人十〇
栗林中将は、
米軍上陸を早ければ十月末日と予想し、
自ら筆を取り「敢闘ノ誓」を作成、
これらを全軍に配布し、
朝礼にあたって兵士達はこれを朗誦しました。
一 我等ハ全力ヲ奮ツテ本島ヲ守リ抜カン
一 我等ハ爆薬ヲ擁キテ敵ノ戦車ニブツカリ
  之ヲ粉砕セン
一 我等ハ挺身敵中ニ斬込ミ敵ヲ鏖殺セン
一 我等ハ一発必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ撃チ
  斃サン
一 我等ハ各自敵十人ヲ殪サザレバ
  死ストモ死セズ
一 我等ハ最後ノ一人トナルモ
  「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン
 
これにより、一人で米兵十人を〇するまでは
絶対に死ぬな、いわゆる「一人十〇」を誓わせ、
無駄な「バンザイ突撃」を戒めました。
 
更に「膽兵の戦闘心得」を作成し配布しました。
<戦闘準備>
 一 十倍の敵打ちのめす堅陣とせよ
   一刻惜しんで空襲中も戦闘中も
 二 八方より襲ふも撃てる砦とせよ
   火網に隙間を作らずに戦友斃れても
 三 陣地には糧と水とを蓄えよ
   烈しき砲撃、補給は絶える
   それも覚悟で準備を急げ
 
<防御戦闘>
 一 猛射で米鬼を滅すぞ
   腕を磨けよ一発必中近づけて
 二 演習の様に無暗に突込むな
   打ちのめした隙に乗ぜよ
   他の敵弾に気をつけて
 三 一人死すとも陣地に穴があく
   身守る工事と地物を生せ
   偽装遮蔽にぬりなく
 四 爆薬で敵の戦車を打ち壊せ
   敵数人を戦車と共に
   これぞ殊勲の最なるぞ
 五 轟々と戦車が来ても驚くな
   速射や戦車で打ちまくれ
 六 陣内に敵が入っても驚くな
   陣地死守して打ち殺せ
 七 広くまばらに疎開して
   指揮掌握は難かしい
   進んで幹部に握られよ
 八 長斃れても一人で陣地を守り抜け
   任務第一 勲を立てよ
 九 喰わず飲まずで敵撃滅ぞ
   頑張れ武夫 休めず眠れぬとも
 十 一人の強さが勝の因
   苦戦に砕けて死を急ぐなよ膽の兵
 十一 一人でも多くを斃せば遂に勝つ
    名誉の戦死は十人斃して死ぬるのだ
 十二 負傷しても頑張り戦へ虜となるな
    最後は敵と刺し違へ
 
5日もあれば硫黄島は落とせる
米国側では、日本攻撃を巡って、
硫黄島を取り
B29で東京空襲を主張するニミッツと
まずはフィリピン奪還し、
その後、台湾からChina本土に侵攻し、
日本総攻撃を主張するマッカーサーとの間で
対立が起こっていました。
 
そのため硫黄島攻撃の「Dデイ (上陸開始日)」は
昭和20(1945)年2月19日と
当初の予定から遅れてしまいました。
更に艦隊配備が間に合わず、
上陸までは3日になってしまいましたが
米軍では5日もあれば硫黄島を十分落とせると
簡単に考えていました。
 
そして2月16日早朝、米軍の艦隊射撃が開始、
以後3日間に渡って砲撃を行いました。
一方日本軍の守備隊は、栗林中将の命令通り、
灼熱の地下壕の中でジッと耐えていました。
 
日本海軍の勇み足
ところが日本海軍は、沖に米軍の偵察部隊の
艦隊が来たのを遠望すると、待ち切れずに
砲撃。
これにより砲台の位置がバレてしまい、
折角、軽巡洋艦の主砲を運んで築いた砲台は
集中砲火を浴びて完膚なきまでに破壊され、
栗林中将の作戦が狂ってしまいました。
 

硫黄島の36日間の死闘

2月19日午前9時2分
そして2月19日午前9時2分、最初の部隊が上陸。
火山灰の砂浜に足を取られ、
身動きが取れなくなり大いに焦りましたが、
どこにも日本軍は見えません。
 
ところが30分後、どこからともなく
砲弾や銃弾が物凄い勢いで降り注ぎ、
更に密集する米軍めがけてロケット弾が炸裂。
上陸当日の米軍の戦〇者は548名、負傷者1755名、
行方不明者18名を出し、戦車15台を破壊される
大損害を被りました。
 
翌日:2月20日
翌日、米軍に千鳥飛行場を占領され、
日本軍は摺鉢山と司令部の連絡が絶たれました。
しかし地下から攻める日本軍の反撃は凄まじく、
近代戦車のシャーマン戦車が次々に撃破されるなど
米軍の損害は増すばかりで、
5日で落ちると思っていた硫黄島の占領が
いつ出来るのか全く分からなくなりました。
 
3日目:2月21日
米軍が「2月21日午後6時現在、戦〇者644名、
負傷者410名、行方不明560名」と発表。
これは第二次世界大戦で米軍が行った如何なる戦闘における〇傷者数よりも多かったことで、
米国の世論が沸騰、轟々たる非難が巻き起こりました。
 
5日目:2月23日
摺鉢山山頂に星条旗が立てられましたが、
もっと目立つ大きな星条旗に替えられ、
この時に星条旗を立てようとした
6名の海兵隊員の姿を撮影した
従軍記者ジョー・ローゼンタールの写真が反響を呼び、
この写真はその年のピューリッツァー賞を受賞し、
6名は国民的英雄となりました。
 
 
ところがまだ死闘は続けられていました。
国民的英雄となった6名のうち3名は戦〇、
2月25日には元山飛行場を占領しましたが、
〇傷者は1万2千名に上りました。
 
12日目:3月2日
それでも日本軍は徐々に北へと追い詰められ、
夜、水を求めて地下壕から出て来た
多くの兵隊が狙い撃ちされて戦〇しました。
 
3月2日には北飛行場も陥落し、
飛行場全てを制圧されてしまいました。
翌々日から終戦までに、延べ2400機以上のB29が
硫黄島に不時着して、
3月10日には、B29が334機がここから飛び立ち東京を空襲し、一夜にして都民10万人が
亡くなりました(「東京大空襲」)。
 
一方米国は硫黄島を手に入れたことによって、
およそ2万人のB29搭乗員の命が助かったと
言われています。
 
15日目:3月5日
「硫黄島の戦い」は、
米国にとって地獄でしたが、
それは戦力で徹底的に劣り、水も食料もない
日本軍にとっても同様でした。
栗林中将は3月5日の大本営宛ての戦訓電報に
「想像もつかない生き地獄」と表現しています。
敵ノ制空権ハ絶対且ツ徹底的ニシテ一日延一六〇〇機ニ達セシコトアリ。未明ヨリ薄暮マデ実ニ一瞬ノ隙ナクニ、三〇ナイシ一〇〇余ノ戦闘機在空シ、執拗ナル機銃掃射カ爆撃ヲ加ヘ、我ガ昼間戦闘行動ヲ封殺スルノミナラズ敵ハソノ掩護下ニ不死身ニ近ク戦車ヲ骨幹トシ、配備ノ手薄ナル点ニ傍若無人ニ滲透シ来リ。
 我ヲシテ殆ド対策ナカラシメ、カクシテ我ガ火砲、重火器コトゴトク破壊セラレ、小銃オヨビ手榴弾ヲ以テ絶対有利ナル物量ヲ相手ニ逐次困難ナル戦闘ヲ交エザルヲ得ザル状況トナレリ。
 以上コレマデノ戦訓等ニテハ到底想像モ及バザル戦闘ノ生地獄的ナルヲ以テ、泣キ言ト思ハルルモ顧ミズ敢テ報告ス。
 
17日目:3月7日
3月7日、栗林中将最後の戦訓電報では
いよいよ玉砕の時が迫る中、
自らの命をとして日本軍のあるべき姿を訴え、
更にこの戦争時代に対する批判を記しました。
主陣地ノ拠点的施設ハ尚徹底的ナラシムルヲ要ス。
其ノ然ルヲ得ザリシハ前項水際陣地ニ多大ノ資材、
兵力、日子ヲ徒費シタルガ為ナリ。
 殊ニ使用飛行機モ無キニ拘ラズ敵ノ上陸企図濃厚ナリシ時機ニ至リ中央海軍側ノ指令ニ依リ第一、第二飛行場拡張ノ為。兵力ヲ此ノ作業ニ吸引セラレシノミナラズ陣地ヲ益々弱化セシメタルハ遺憾ノ極ミナリ。
 防備上更ニ致命的ナリシハ彼我物量ノ差余リニモ
懸絶アリシコトニシテ結局戦術モ対策モ施ス余地ナカリシコトナリ
 
26日目:3月16日
3月14日、戦車を失いつつも
最後まで東地区を死守した
西竹一戦車連帯は連隊壕を脱出して、
栗林中将に合流すべく師団総司令部に
向かいました。
 
3月16日、信頼する千田貞季少将の旅団が壊滅、訃報を聞いた、栗林中将は兵団の総攻撃を
決意したと言われ、
大本営に向けて決別の電報を打っています。
戦局 最後ノ関頭ニ直面セリ。敵来攻以来、麾下将兵ノ敢闘ハ真ニ鬼神ヲ哭シムモノアリ。特ニ想像ヲ越エタル物量的優勢ヲ以テスル陸海空ヨリノ攻撃ニ対シ
宛然徒手空拳ヲ以テ克ク健闘ヲ続ケタルハ 小職自ラ聊カ悦ビトスル所ナリ。
 然レドモ飽クナキ敵ノ猛攻ニ相次イデ斃レ為ニ御期待ニ反シ此ノ要地ヲ敵手ニ委ニヌル外ナキニ至リシハ
小職ノ誠ニ恐懼ニ堪ヘザル所ニシテ幾重ニモ御託申シ上グ。
 今ヤ弾丸尽キ水涸レ 全員反撃シ最後ノ敢闘ヲ行ハントスルニ方リ。熟々皇恩ヲ思ヒ粉骨砕身モ亦悔イズ
 特ニ本島ヲ奪還セザル限リ。皇土永遠ニ安カラザルニ思ヒ至リ。縦ヒ魂魄トナルモ誓ツテ皇軍ノ捲土重来ノ魁タランコトヲ期ス。茲ニ最後ノ関頭ニ立チ 重ネテ衷情ヲ披瀝スルト共ニ 只管皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ永ヘニ御別レ申シ上グ。
 尚父島、母島等ニ就テハ 同地麾下将兵 如何ナル敵ノ攻撃ヲモ断固破摧シ得ルヲ確信スルモ 何卒宜シク御願申シ上グ。
 終リニ左記駄作 御照覧ニ供ス。何卒玉斧ヲ乞フ
 
左記
 国の為重きつとめを果し得で
      矢弾尽き果て散るぞ悲しき
 仇討たで野辺には朽ちじ吾は又
      七度生まれて矛を執らむぞ
 醜草の島に蔓るその時の
      皇国の行手一途に思ふ
 
これを受けて大本営は、現在のNHKに
「硫黄島の歌」をはなむけに放送させました。
硫黄島守備隊は、見捨てられたという絶望と、
騙されたという怒りがこみ上げたであろうと、
前年9月に病気のため内地に移送された、
元海軍上等兵曹は手記に記しています。
 
一方3月16日、米ニミッツ提督は
硫黄島作戦の終結宣言を行いました。
 
27日目:3月17日
この日の早朝、栗林中将は電報を打ち、
全将兵に呼び掛けました。
 一、戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ
 二、兵団ハ本十七日夜、総攻撃ヲ決行シ
   敵ヲ撃摧セントス
 三、各部隊ハ本夜正子ヲ期シ各方面ノ敵ヲ攻撃、
   最後ノ一兵トナルモ飽ク迄決死敢闘スベシ
   大君テ顧ミルヲ許サズ
 四、予ハ常ニ諸子ノ先頭ニ在リ
 
そして酒と恩賜の煙草が配られ、
『この期に及んでは「一人百〇」の他なし』と
訓示し(無謀な「バンザイ突撃」は禁止)、
最後の総攻撃に出発しました。
一方で、司令部の吉田紋三少佐に、
生き延びていつか島を脱出し、
この惨状を日本国民に伝えよと命じました。
(吉田少佐は脱出に失敗し、戦〇。)
 
31日目:3月21日
父島派遣司令部からの
無線による呼びかけに応答がないため、
大本営は「硫黄島玉砕」を発表。
翌22日、朝日新聞は玉砕を報じました。
 
ところが栗林中将はまだ戦い続けていました。
21日以降も刻々と大本営に電報が送られて
きました。
 
23日に「父島ノ皆サンサヤウナラ」、
25日に「師団長以下敢闘中 高石大佐」という
電報が届きました。
 
36日目:3月26日
3月26日早朝、市丸少将、高石大佐ら
陸海軍将兵およそ400名を指揮して、
栗林師団長は西海岸の米軍野営地に
最後の総攻撃に出発。
無謀なバンザイ突撃などせずに、
自ら先頭に立ち、整然と巧みな攻撃を敢行し、
9日目に玉砕しました。
なお栗林中将は階級章も全て外していたので、
遺体は確認されていません。
 
ゲリラ戦
主力部隊は玉砕しましたが、「敢闘の誓」 の通り、
地下で戦い続けた兵士達は、
「ゲリラ」となって更に数か月に渡り
抵抗を続けました。
ゲリラ部隊を指揮した武蔵野菊蔵大尉が
米軍に捕らえられたのは6月11日。
そして、最後に兵士2名(山蔭光福兵長・
松戸利喜夫上等水兵)が投降したのは、
終戦から4年後、蝶戦争動乱の1年前の
昭和24(1949)年でした。
 
結果
  日本軍 米 軍
戦〇   陸 軍:12,850
  海 軍:  7,050
         
    計:19,900
  海兵隊:  5,931
  海 軍:     881
  陸 軍:   9
    計:19,900
戦傷   陸 軍:  738
  海 軍:     297
         
    計:  1,033
  海兵隊:19,920
  海 軍:  1,917
  陸 軍:    28
    計:21,865
合計   20,933   28,686
 
米軍が5日で陥落させると言った
硫黄島での組織的な戦闘は36日間続き、
戦死傷者の数は米軍が日本軍を上回り、
大東亜戦争の島嶼戦において
米軍の損害が日本より大きかったのは、
唯一、硫黄島の戦いのみでした。
あれだけの戦力差があったにも関わらず、
これは奇蹟でした。
 
大本営は硫黄島があれほど頑張れるとは
思っていませんでした。
また米国においても大きな意味を持つことに
なりました。
 
あんな小さな島で
3万人近い戦〇・戦傷者を出したのだから、
内地に侵攻したら少なくとも260万人は
〇されるだろうと計算しました。
更に沖縄でも苦しんだことから、
九州上陸作戦は取り止めとなりました。
 
また、ベトナム戦争において、ベトナム軍が
栗林中将の地下からの死闘と同様の戦術により
物量の圧倒的に優勢な米軍に勝利しました。
 

硫黄島返還

返還

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昭和42(1967)年11月14・15日に行われた
「佐藤・ジョンソン会談」では、
沖縄返還に先立ち、小笠原返還について合意し
翌昭和43(1968)年4月5日、
「小笠原諸島返還協定」が調印されて、
同年6月26日、小笠原諸島が返還されました。
 
現在

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しかし硫黄島は、
日本復帰から半世紀が過ぎた今もなお、
元島民の帰島が叶わない状況が続いています。
火山島なので、噴火の恐れがあり
危険だからとも言われていますが、
海上自衛隊が管理する軍事用航空基地の
島だからです。
海上自衛隊及び航空自衛隊、海上保安庁、
気象庁、工事関係者など常駐し、
在日米軍の訓練施設としても
使用されています。
 
硫黄島への渡航
平成9(1997)年より、毎年一回、
旧島民と小笠原の島民・中学生を対象に
小笠原村主催による硫黄島訪問事業が
行われています。
また東京都は、「硫黄島戦没者追悼式」を
毎年、遺族を招いて開催しています。
 
一般市民対象のものとしては、年に一回、
小笠原海運が「硫黄島3島クルージング」があり
令和7(2025)年は6月13日(金)になります。
各島への上陸はせず、沿岸から3島を眺めるだけ
ですが、いかがでしょうか?

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