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♪ 秋の夕日に 照る山もみじ♪ 唱歌『紅葉』

 
♪ 秋の夕日に 照る山もみじ~
 が歌い出しの『紅葉」(もみじ) は、
明治44(1911)年に『尋常小学唱歌(二)』で
発表された「尋常小学唱歌」です。
世代を越えて親しまれ、平成18(2006)年には
「日本の歌百選」にも選定されています。
 
 

尋常小学唱歌

尋常小学読本唱歌
文部省は、明治12(1879)年に
我が国最初の小学校用歌唱教材集
『小學唱歌集』発行後、
明治43(1910)年7月14日に
『尋常小学読本唱歌』が刊行されました。
 
『尋常小学読本唱歌』は、
当時の小学国語教科書『尋常小学読本』の中の
韻文教材27首に曲をつけて編集したものです。
 
尋常小学唱歌
『尋常小学読本唱歌』に続いて文部省は
各学年配当の唱歌集編集に着手し、
翌明治44(1911)年から大正3(1914)年にかけて
『尋常小学唱歌』を刊行しました。
第一学年用から第六学年用まで、全6冊、
各20曲の合計120曲が収録されました。
 
特徴
この国定教科書『尋常小学唱歌』は、
それまで主流だった翻訳唱歌から脱却して、
日本人の作曲家による
日本独自のメロディと歌詞が用いられて
いるのが特徴です。
 
唱歌教育が情操の陶冶や徳性の涵養に
重きを置いていたことから、
作詞・作曲とも、
その道の最高権威者が選ばれました。
 
歌詞は『尋常小学読本』の著作権は
文部省が有し、
「文部省唱歌」と呼ばれるようになり、
今日の音楽教科書の源となりました。
 
この国定教科書は、
明治44(1911)年から昭和6(1931)年まで
およそ20年間という長い期間使用され、
昭和7(1932)年に『新訂尋常小学唱歌』が
刊行されました。
 
『尋常小学唱歌』に収録されている
唱歌の例



はとぽっぽ ぽっぽっぽ はとぽっぽ 
まめがほしいか そらやるぞ♪
かたつむり でんでん むしむし かたつむり
お前のめだまは どこにある?
出た出た月が まるいまるい 
まんまるい盆のような月が
日の丸の旗 白地に赤く 日の丸染めて 
ああうつくしや 日本の旗は
桃太郎 お腰につけたキビダンゴ 
一つわたしに下さいな



浦島太郎うらしまたろう むかしむかし浦島は 
助けた亀に連れられて
ふじの山
(富士山)
あたまを雲の上に出し 
四方の山を見おろして
紅葉もみじ 秋の夕日に 照る山もみじ
濃いも薄いも 数ある中に
雪やこんこ あられやこんこ
…猫はこたつで丸くなる



茶摘ちゃつみ
夏も近づく八十八夜 
野にも山にも若葉が茂る
春が来た 春が来た 春が来た どこに来た
山に来た 里に来た 野にも来た
虫のこえ あれ松虫が 鳴いている 
ちんちろ ちんちろ ちんちろりん



春の小川 春の小川は さらさら行くよ
岸のすみれや れんげの花に
田舎の四季 道をはさんで、畠一面に
麦はほが出る、菜は花盛り
村の鍛冶屋 暫時も止まずに槌打つ響
飛び散る火の花 はしる湯玉



鯉のぼり 甍の波と 雲の波 
重なる波の 中空を
松原遠く消ゆるところ



朧月夜おぼろづきよ 菜の花畠に 入り日薄れ 
見わたす山の端 霞ふかし
我は海の子 我は海の子 白波の 
さわぐいそべの 松原に
故郷ふるさと うさぎ追いし かの山 
小鮒釣りし かの川
 
『紅葉』の作詞者・作曲者
編纂委員委員会において合議により
作詞、作曲されたため、
発行された当時は
個々の作詞・作曲者は掲載されませんでした。
戦後になって、著作権の問題から
作者を明らかにする調査が進められて、
『紅葉』の作詞は高野辰之、作曲は岡野貞一と
記されるようになりました。
 
なお岡野・高野コンビは、『紅葉』の他にも
『故郷』(ふるさと)『春が来た』『春の小川』
『朧月夜』(おぼろづきよ) などの
日本の名曲を数多く残しています。
 


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唱歌『紅葉』の歌詞

歌詞
一.秋の夕日に照る山もみじ
  濃いも薄いも数ある中に
  松をいろどる楓 (かえで) や蔦 (つた)
  山のふもとの裾模樣 (すそもよう)
 
二.溪 (たに) の流に散り浮くもみじ
  波にゆられて はなれて寄って
  赤や黄色の色さまざまに
  水の上にも織る錦 (にしき)
 
一番の歌詞
 
そもそも「紅葉」とは
特定の植物を指している訳ではなく、
秋になると赤や黄色に色づく植物のことを
まとめて表す総称です。
 
 
そして冒頭に出てくる「山もみじ」は、
盆栽としても人気の樹種で、
数あるモミジの中で
最も多くの園芸品種を作り出している
モミジの代表格です。
 
 
秋の真っ赤な夕日に照らされて、
そんな「山もみじ」の赤が
一層色鮮やかに輝いて目に飛び込んで
来るかのように感じたのだと思われます。
更に山全体を見渡すと、
モミジの定番である「楓」や「蔦」の
同じ赤でも色の濃淡がそれぞれ違う赤色と、
山の麓にある松の緑がたくさん入り混じって、
まるで着物の「裾模様」のように色とりどりで
紅葉の魅力をより引き立てているという
そのような景色を表現しています。
 
二番の歌詞
 
一番では遠くの山を眺めていたのに対し、
二番では身近な景色を見ていると
解釈出来そうです。
 
「渓の流」(たにのながれ)
山の谷間から流れる川のことなので、
おそらく橋の上から川を見下ろして、
山を美しく装っていた
「紅葉」の葉も散ってしまい、
その散った「紅葉」の葉が
川に浮かんで流れていく情景を歌っています。
「波にゆられて」、葉は変則的に、互いに
「はなれて寄って」を繰り返しています。
 
 
「波にゆられて」いるもみじも
「赤や黄色の色さまざまに」川を彩り、
まるで繊細で精巧な美しさを持つ
最高峰の絹織物である「錦」の反物が
広がっているかのように見えたということを
表しています。
 
 
葉や花が散る光景は、どちらかと言えば
切なさや悲しさといった感情と
結びつけられることが多いのですが、
この『紅葉』では、散った後も
人の心を満たしてくれる「もみじ」の美しさと
秋の豊かさに気づかせてくれます。
 

『紅葉』の舞台

『紅葉』を作詞した高野辰之 (たかのたつゆき) は、
長野県永栄村(現、長野県中野市)出身で、
群馬県と長野県の境に位置する碓氷峠にあった
信越本線の熊ノ平駅 (くまのたいらえき) から
紅葉を眺め、その美しさに惹かれて
この詞を作ったと言われています。
 
高野の御子息の正巳さんが
晩年に読売新聞の取材に応じ、
「この歌の舞台は旧・熊ノ平駅周辺の
 碓氷峠の風景です。
 親父がはっきり申していました」
と述べています。
 
 
平成9(1997)年9月30日に長野新幹線開通により
「熊ノ平駅」も廃止されましたが、
鉄道マニアにとっては有名な廃止駅として
人気を呼んでいます。
また横川から熊ノ平間の5.9kmは、現在、
廃線遊歩道「アプトの道」として整備され、
紅葉と夕日の絶景スポットとして人気です。
 
 
なお「アプトの道」の紅葉は、
例年11月上旬から中旬が見頃だそうです。

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作詞家・作曲家

作詞・高野辰之


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『故郷』『朧月夜』『春の小川』などの
作詞で知られる高野辰之 (たかのたつゆき) は、
明治9(1876)年4月13日、
長野県永江村(現中野市)に生まれました。
 
 
下水内高等学校を卒業後、
母校の永田尋常小学校の代用教員を務めた後、
長野師範に進学し、島木赤彦や太田水穂などと
友を深め、和歌詩歌などを多く詠みました。
 
26歳の時に、作家・円地文子の父でもある
上田万年文学博士を頼って上京すると、
博士の下で、国語、国文学の研究に没頭。
 
明治35(1902)年に
「文部省国語教科書編纂委員」に選ばれて、
国が初めて発行した国定音楽教科書
「尋常小学唱歌」を編纂する一方で、
「故郷」「朧月夜」「春の小川」
「春が来た」「紅葉」などの文部省唱歌などを
作詞しました。
 
 
明治43(1910)年には
東京音楽学校の教授となり、
広く文献資料を収集・考証し、
邦楽・歌謡・演劇の芸態とその史的研究の
先駆者として未踏の分野を開拓。
高野辰之の三大著作と言われる
『日本歌謡史』『江戸文学史』「日本演劇史』を
次々と書き上げ、近代の国文学に大きな功績を
残しました。
大正14(1925)年に東京帝国大学から
文学博士の学位を、
昭和3(1928)年には帝国学士院賞を授与されて
います。
 
 
郷里の中野市には、
『故郷』(ふるさと)の記念碑と高野辰之記念館が、
晩年を過ごした野沢温泉村には、
「朧月夜」歌碑が建てられた他、
おぼろ月夜の館」という名前の記念館が
あります。
 
作曲・岡野貞一
 
岡野貞一は、高野と同様、
東京音楽学校の教授を務め、この間、
文部省唱歌の編集、作曲委員として
多くの唱歌を作曲しています。
 
また、日本本土はもとより、
樺太、台湾、朝鮮、満洲まで、
170校を超える校歌を作曲し、
現在も60校に及ぶ学校で歌い継がれています。
 
 
ただ、『紅葉』作詞に関連するエピソードが
残っている高野に対して、
終生、東京・文京区の本郷教会で
毎週オルガンを弾き続けていた
寡黙なクリスチャンだった岡野は、
作曲にまつわる発言や記述を残してはおらず、
具体的な作曲記録が残っていないため、
現在でもこの『紅葉』の作曲者としては
「推定」とされています。