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相撲は俳句では「秋」の季語

令和6(2024)年9月8日から、
両国国技館で「秋場所」が始まります。
 
 
ところで、相撲は、俳句の世界では、
「秋」の季語としてよく知られています。
奈良・平安時代、宮中では、
毎年7月 (陰暦・初秋) に
「相撲節会」(すまいのせちえ) が行われたため、
秋の行事ということになったようです。
 

相撲の歴史

相撲の起源
~神話の中の相撲~
『古事記』には、天照大御神の命を受けて
大国主神に国譲りを迫るため出雲の国に下った
建御雷之男神 (たけみかずちのおのかみ) が、
建御名方神 (たけみなかたのかみ) と力競べをし、
建御名方神は科野国の州羽海(=諏訪湖)に
投げ飛ばされたという話があります。
 
 

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また、「天の岩戸」を引き開けた力自慢の
天手力男神 (あめのたじからおのみこと) が、
怪力を持った神様であるところから、
相撲の神様ともされています。
 
 

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また『日本書紀』には、
第11代垂仁天皇7(B.C.23)年7月7日に、
出雲の勇者・野見宿禰 (のみのすくね)
大和国葛城出身の大力無双の強者・
当麻蹶速 (たいまのけはや) と天皇の御前で闘い、
野見宿禰が見事に蹴速を倒したとあります。
これが最古の「天覧相撲」とされ、
宿禰は相撲の神様になりました。
 
 
その後、野見宿禰は当麻蹶速の領地を賜り、
長く垂仁天皇に仕え、埴輪を考案したという
逸話もあります。
埴輪や土器づくり、古墳の造営に携わった
古代の豪族・土師 (はじ) 氏は、
この野見宿禰の後裔と言われています。
なお、学問の神様・菅原道真公は、
この野見宿祢(後の土師氏)より出ており、
第17世の孫に当たります。
 
 
宮中の年中行事
「相撲節会」(すまひのせちえ)
 
「相撲節会」(すまひのせちえ)は、
天皇が宮中で相撲を叡覧 (えいらん) した
華麗な儀式で、
現在の大相撲の原型となりました。
 
聖武天皇の天平6(734)年7月7日に端を発し、
奈良時代には不定期に行われていましたが、
桓武天皇の延暦12(794)年からは
毎年7月末に定期的に催され、
承安4(1174)年の高倉天皇相撲天覧を最後に
400年に及んだ「相撲節会」は廃絶しました。
 
 
ところで「相撲節会」は、
紫宸殿の南庭にて天皇出御の下、
各地から集められた「相撲人」 (すまいびと)
7月26日にまず皇居の仁寿殿の庭で
「内取」(うちどり) という予選会に臨み、
28日はいよいよ紫宸殿前の本会場で、
予選を勝ち抜いた40人による20番の取組み
「召合」(めしあわせ) が行われ、
更に優秀な成績を収めた勇者は翌29日に
「抜出」(ぬきで) という決勝戦が行われました。
 
 
「相撲人」 (すまいびと) は、
「たふさぎ」という褌を腰に締めて、
東方の力士が「葵」の花、
西方の力士が「夕顔」の花を頭につけて
「花道」(はなみち) を通って、相撲を取りました。
 
 
「相撲取」(すもうとり) と呼ばれるようになったのは戦国時代以降のことです。
「力士」(りきし) の呼称は、勧進相撲が盛んに
なった江戸時代中期頃に定着しました。
この頃、土俵入りの際に締める「化粧廻し」や
取組用の「廻し」、土俵や興行場が確立し、
現在の相撲興行の基礎が出来上がりました。
 
武家社会における相撲
 
武家社会になった鎌倉時代以降、
純粋な力比べと戦闘の訓練として
武士達の間に相撲が広まり、
源頼朝などは度々上覧相撲を開きました。
かの織田信長も相撲を愛したと言われています。
各地の大名達は相撲の強い者を家臣にするなど、
相撲が職業的な側面を持つようになります。
 
現在の大相撲は
江戸時代にほぼ確立

 
江戸時代に入ると浪人や力自慢の者の中から、
相撲を職業とする人達が現れ、
全国で寺社の修繕費などの資金を集めるために
「勧進相撲」が盛んに行われるようになり、
江戸時代中期には
定期的に相撲が興行されるようになりました。
 
 
谷風・小野川・雷電の3大強豪力士が出現したり、
将軍上覧相撲も行われたことから、
相撲の人気は急速に高まり、
今日の大相撲の基礎が確立されました。
 
明治以降の相撲
 
明治時代に入って西洋文化が浸透してくると、
裸で取り組みを行う相撲は野蛮なものとして
衰退の危機に陥りましたが、
それでも相撲を愛する人々の熱意と
明治天皇が計8度に渡る「天覧相撲」により、
相撲人気は再び復活し、明治の終わり頃に
最初の国技館が建設されました。
 
現在の相撲
 
現在の大相撲における様式は、
江戸時代の風習そのままを受け継いでいます。
(まげ) や着物など、日常生活でさえも
江戸時代の風習のままです。
外国人力士が増えても、
伝統や風習は何ひとつ変えていません。
品格が求められるのも、日本人の精神、
武士道を受け継いでいるのでしょう。
 
 

祭りの儀式

 
日本では大昔から、相撲は、
ただ単に力比べのスポーツや娯楽ではなく、
本質的には、農業生産の吉凶を占い、
神々の思召し「神意」を伺う神事として
広く行われていたようです。
 
 
天皇が相撲を天覧になった記述 (続日本紀) は、
天平6(734)年7月7日が初めですが、
それ以前からこのような風習が
伝承していたことは、
相撲に関する様々な記述から推察されます。
 
神亀3(726)年は雨が降らず日照りのため
農民が凶作に苦しんだことから、
聖武天皇は伊勢大廟の他21社に勅使を派遣して
神の加護を祈ったところ、
その翌年は全国的に豊作をみたので、
お礼として各社の神前で相撲を取らせて
奉納したことが、公式の神事相撲の始まりと
記されています。
 
 
元正天皇の養老3(719)年、相撲人を選抜する
官職「抜出司」(ぬきでのつかさ) が設置され、
神亀・天平年間 (724-749) に、聖武天皇は
相撲人を差し出すように勅令を出し、
そして宿禰、蹶速の相撲伝説が
7月7日であるところから、七夕祭の余興に、
相撲を観覧することが恒例となりました。
 
 
平安時代に入ると、延喜5(905)年には、
宮中の重要な儀式である「三度節」(さんどせち)
[射礼・騎射・相撲]の一つに定められて、
太古の頃から各地の農民の間で
年中行事化していた神占いの神事相撲が、
宮廷において国々から相撲人を召し集め、
相撲を取らせる「相撲節会」という
大規模な国家的年占いに発展しました。
 
独り相撲の語源「一人角力」


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物事を一人だけで気追い込むことを
「独り相撲」(ひとりずもう) と言いますが、
この語源となった神事があります。
愛媛県大三島にある 
大山祇神社(おおやまづみじんじゃ) で奉納される
「一人角力」(ひとりずもう) です。
 

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毎年旧暦5月5日の「御田植祭」と
旧暦9月9日秋の「抜穂祭」(ぬきぼさい) において、
「一人角力」(ひとりずもう) も行われます。
これは、力士「一力山」(いちりきざん)
目に見えない稲の精霊と三本勝負を行って、
毎年必ず稲の精霊が二勝一敗で勝つという、
豊作祈願の予祝の神事です。
 
傍から見れば、力士「一力山」が
一人でバタバタ相撲をとっているように見え、
なかなか滑稽な姿です。
ここから転じて、自分だけが気負って
必死なことを「独り相撲」と言うように
なったそうです。
 

力士達の一挙手一投足

邪気を払う「四股踏み」
四股 (しこ) を踏む動作は、
土中にいる邪気を払う動作でもあります。
「四股」(しこ) には「醜い」という意味があり、
醜い邪気を踏んで土俵から追い払っているの
です。
 
土俵を清める「塩まき」

土俵に入る前には必ず塩をまきますが、
これは「清めの塩」と言って、
土俵の邪気を祓い、土俵を清める役割があり、
神へ祈りを捧げる動作です。
なお、塩をまいて土俵入りすることを
許されるのは関取になってからだそうです。
つまり「塩まき」は、
一人前の力士として認められた証なのです。
 
体を清める「力水」
 
土俵の側には桶に入った水
「力水」(ちからみず) が置かれています。
塩をまいた後に、
1つ前の取組で勝った力士から
桶の水をつけてもらい、
口をすすいで身を清めます。
そして「力紙」(ちからがみ)
力水を拭き取ります。
 
相手に対して敬いの念を示す「蹲踞」
土俵に上がった力士がまず取る姿が
「蹲踞」(そんきょ) です。
爪先立で膝を大きく広げ、
背筋を伸ばして手を軽く膝に乗せます。
この姿勢は相手に対して
敬いの念を示すという意味があると言います。
 
正々堂々と戦う表明「塵手水」
「蹲踞」(そんきょ) に続いて
「柏手」(かしわで) を打った後、
両手を横に広げる力士独特の動作を
「塵手水」(ちりちょうず) と言います。
 
 
武器を持たず、体1つで正々堂々と戦う
意思の表明であると言われており、
「塵 (ちり) を切る」とも言います。
水がない野外で草などで手を清めた動作の
名残りだと言われています。