毎年4月22日、多賀大社(たがたいしゃ)では
「古例大祭」、通称「多賀まつり」が
行われます。
多賀大社の年中行事のうちで最も重要な大祭で、
武家や公家などの装束に身を包んだ
氏子ら総勢500人が、
馬を引き連れて神社周辺を練り歩きます。
多賀まつり
「多賀まつり」の起源については
定かではありませんが、
鎌倉時代には既に行われていたことが
分かっている、古式ゆかしい祭です。
この祭りでは
40頭程の騎馬の供奉が行われることから
「馬まつり」とも呼ばれています。
この祭りは1月3日から始まり、
この日は、多賀町周辺の地域から
祭りの主役である神の使い「馬頭人」(ばとうにん)、
多賀大社の信仰が厚い愛知県や岐阜県から
馬頭人に仕える「御使殿」(おつかいでん)が
選ばれます。
4月に入ると、馬頭人 と御使殿 は、
神様を迎え入れる「御神入式」、
神様に御供物を献じる「大御供式」(おおみごくしき)
などを執り行ないます。
当日は、午前8時半から本殿で神事が斎行され、
続いて午前10時からは列次を整えて、
祭の最大の見どころ「本渡り」が始まります。
その列次は、馬頭人 、御使殿 を中心に、
氏子や崇敬者の騎馬供奉(くぶ)四十数頭、
御神輿や御鳳輦(ごほうれん)の供奉者など
実に500名に及ぶ行列が参道を練り歩きます。
行列は境内を出ると二手に分かれ、
「賓台」(ひんだい)と呼ばれる河原において
「御幣合わせ」の儀式を行ないます。
一方、馬や神輿などの一行は
芹川上流の栗栖(くるす)という集落にある
「調宮」(ととのみや)へと向かいます。
午後2時頃、両者は多賀大社前で合流し、
多賀大社の参道「絵馬通り」を通って
尼子の「打籠馬場」へと向かい、
ここで「富ノ木渡し式」という儀式を行います。
午後3時半、揃って多賀大社へと戻ります。
多賀大社
多賀大社は日本の国土と地上の神々を生んだ
古くから「お多賀さん」の名で親しまれる
滋賀県第一の大社です。
「延命長寿・縁結び・厄除け」の
神様として信仰を集め、
鎌倉時代から江戸時代にかけては、
武家や民衆にも信仰が広まり、
多賀大社の分祀社は全国239社を数えます。
現在、年間170万人もの参拝客が訪れる
関西屈指のパワースポットとして
親しまれています。
御祭神・
伊邪那岐大神と伊邪那美大神
『古事記』によると、
初めて夫婦の道を始められ、
日本の国土、
続いて天照大神(あまてらすおおみかみ)を始めとする
八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。
そのため、
「お伊勢参らばお多賀も参れ。
お伊勢お多賀のお子じゃもの」とも歌われ、
近世には多くの参詣者が訪れました。
春日局もその一人で、
徳川3代将軍・家光の代参として
東大寺中興の祖・重源
また多賀大社は「延寿」(えんじゅ)の御神徳でも
知られています。
これは東大寺の再建に当たった重源(ちょうげん)が
延寿の祈願をしたという逸話によります。
鎌倉時代、重源は61歳の時に後白河法皇より、
東大寺再建の大事業を命じられます。
重源は既に高齢であったことから
神明の擁護なくしては成功を期しがたいと、
伊勢神宮で十七箇日の祈祷を謹仕しました。
すると大神様が現れ、
寿命を祈願するならば「近江の多賀大社」に参詣し
祈願を凝らせよとの神教を受けました。
そこで多賀大社に参拝すると、
一片の木の葉が舞い来て面前に止まりました。
何気なく重源がその葉を取り見ると、
虫喰みのような恰好で「莚」という文字が
出ていました。
「莚」は分解すると
「十」が「二つ」に「延」となります。
これを20年の延寿のお告げと受け取った重源は
見事に復興事業を成し遂げ、
86歳の長寿を全うしたそうです。
境内には大願成就を果たし、
御礼の参拝に訪れたおり、
重源が背負っていた笈を下ろしたと伝えられる
「寿命石」があります。
住所:〒522-0341
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
滋賀県犬上郡多賀町多賀604