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4月13日は「喫茶店の日」~日本の喫茶店の黎明期~

 
4月13日は「喫茶店の日」です。
日本に初めて
本格的な喫茶店が誕生した日です。
 
 

喫茶店の日

明治21(1888)年4月13日、
東京の上野に日本初の本格的な喫茶店
「可否茶館」(かひいさかん) が開業しました。
この日を記念して
「喫茶店の日」が誕生しました。
 

コーヒー伝来

 
日本にコーヒー豆が伝来したのは、
江戸時代、鎖国時代に
オランダ商人によって
出島にもたらされたと言われています。
ただ、当時コーヒーに触れることが出来たのは
出島にいたオランダ人と
出入りしていた通訳や一部の役人と
芸者さんだけでした。
 
 
ただ日本人には、コーヒーの独特な味わいは
受け入れられなかったようで、
狂歌師・蜀山人 (しょくさんじん) としても知られる
幕臣の大田南畝 (おおたなんぽ)
長崎奉行所勘定所に派遣された際、
オランダ船でコーヒーを味わった時の感想を
文化2(1805)年に出版された
『瓊浦又綴』(けいほゆうてつ) の中で、
「焦げくさい味に耐えられない」と
綴っています。
 
 紅毛船(=オランダ船)にて
 「カウヒイ」といふものを勧む、
 豆を黒く炒りて粉にし、
 白糖を和したるものなり、
 焦げくさくして味ふるに堪ず
 
江戸時代後期、オランダ人のシーボルトが
「日本にはコーヒー文化が浸透していない」
ことを知って、
コーヒーの健康効果を説きました。
 

日本初の本格的喫茶店
「可否茶館」

 
安政5(1858)年に日米修好通商条約が結ばれると
コーヒー豆の正式な輸入が開始され、
明治21(1888)年4月13日、
日本で初となる喫茶店「可否茶館」が
東京・上野にオープンしました。
 
店主は鄭永慶 (ていえいけい)
安政5(1858)年、代々、唐通事 (とうつうじ) という
裕福な家に生まれました。
唐通事 (とうつうじ) とは、
江戸時代に長崎などで、Chinese通訳、
貿易事務、唐人屋敷の管理を担当した役人。
慶長8(1603)年に設置され、
主に在留や帰化したChineseとその子孫が
世襲しました。
唐船の取引や国際情報の収集、
風説書の翻訳を行い、
長崎の文化・産業発展にも貢献しました。
 
明治7(1874)年、16歳の時に
米国のイェール大学に留学し、
帰国後は教職を経て
外務省や大蔵省の官僚になるも
明治20(1887)年辞職。
同年焼失した自宅跡を
翌明治21(1888)年喫茶店として開業しました。
 
 
「可否茶館」は2階建て洋館でした。
1階はビリヤード場で、ビリヤードの他、
トランプや囲碁、将棋などをすることが
出来たそうです。
2階は喫茶室になっていて、
「フランスのカフェーのように
 詩人や画家のサロンにしたい」と、
店内には娯楽品や国内外の書籍、
化粧室やシャワー室までもが備えられていて、
「コーヒーを飲みながら知識を吸収し、
 文化交流をする場」として
賑わいをみせていたのだとか。
 
 
しかし時代を先取りし過ぎたのか、
お蕎麦が8厘から1銭程度の時代に
コーヒーが1銭5厘で、席料が1銭5厘と
高価であったためなのか、
更に投資の失敗で多額の借金を抱えることに
なってしまったからでしょうか、
明治25(1892)年に閉店してしまいました。
なお、上野オリックスビル敷地内
(台東区上野1-1-10)に
記念碑が設置されています。

map.yahoo.co.jp

 
鄭永慶は、その後、債権者から逃れる為に
米国に密航し、
明治27(1894)年7月17日にシアトルで
37歳の若さで亡くなりました。
 

文化人が集う場所へ
銀座三大カフェー

 
明治44(1911)年、
当時、文化の発信地だった東京・銀座に
芸術家たちが語り合うサロンとして
「銀座三大カフェー」とも称される
3つの喫茶店が誕生します。
・カフェー プランタン(  3月 創業)
・カフェー ライオン (  8月 創業)
・カフェー パウリスタ(12月 創業)
 
それぞれが特色を打ち出して、
文化人や芸術家達の社交場として
賑わいました。
 
カフェー プランタン
3月、東京・京橋日吉町(現・銀座8丁目)に
会員制カフェ「カフェー・プランタン」が
洋画家の松山省三と、
新橋の有名料亭「花月楼」の若旦那で画家の
平岡権八郎によって開業しました。
相談役の劇作家・小山内薫が、
仏語「春」を意味する「プランタン」と命名し
建築家の古宇田實・岡田信一郎、
洋画家の青山熊治・岸田劉生・岡本帰一らが
店の改造やペンキ塗りに力を貸したそうです。
 
本格的なコーヒーが飲めて、
料理はビフテキ、カツレツ、
ライスカレーなどの洋食が中心で、
当時はまだ珍しかったマカロニグラタンや
トマト煮、サンドイッチなども好評でした。
酒も品揃えが豊富で、ビール、各種の洋酒や
カクテルも出していたようです。
 
当初は会費50銭で維持会員を募り、
会員には、洋画家の黒田清輝・和田英作、
森鷗外・北原白秋・永井荷風・谷崎潤一郎・
高村光太郎といった文学者、
市川左團次ら歌舞伎役者、新橋芸者の面々など当時の新進気鋭の芸術家達が集い、
ヨーロッパのエスプリへの憧れを形にしたのが
「カフェー・プランタン」でした。
 
カフェー ライオン
8月にオープンした「カフェー・ライオン」は、
規模が大きく、一般客にも入りやすかったと
言われています。
築地精養軒の経営であったことから、
料理に力を入れており、
美人女給が和服にエプロン姿で
サービスすることで知られ、
男性客に人気でした。
 
 
昭和6(1931)年に経営が大日本麦酒に移り、
『ライオンヱビスビヤホール』という店名の
ビヤホールとして生まれ変わりました。
それから「銀座ライオン」という
通称・愛称で呼ばれるようになり、
戦後の昭和24(1949)年、それまで愛称であった
「銀座ライオン」が正式な店名となりました。
現在もサッポロライオンのコアブランドとして
親しまれています。

www.ginzalion.jp

 
カフェー パウリスタ
 
12月には、現在も銀座にお店を構える
「カフェー・パウリスタ」が開店します。
 
交詢社向かいの角に建てられた
3階建ての洋館で、
「一合たっぷり入る厚手のカップ一杯の珈琲」 と「米国風の黒いドーナッツと
 数種類のサンドウィッチ」を提供していたと
されています。
 
 
パウリスタの創業者・水野龍 (みずのりゅう) は、
ブラジル移民を送り出す移民会社
「皇国殖民会社」を経営しており、
サンパウロ州政府から生豆の無償提供を受け、
大隈重信の援助で開業しました。
 
 
当時としては高品質で美味しいコーヒーを
安価で提供出来ることから、
「銀座三大カフェー」中、
最も「コーヒー専門店」色が強いカフェでした。
大正時代には店の隣にあった時事新報社で
社会部記者をしていた菊池 寛が
高校で同期だった芥川龍之介と
よく待ち合わせたことでも知られており、
芥川の小説には具体的な固有名詞の他、
この店を舞台にしたと思しき
「カッフェ」の描写が頻出します。
 
ここでコーヒーの「いろは」を学んだ
業界人を数多く輩出した、
戦前の水商売系カフェーではない、
日本喫茶店の源流とされています。

www.paulista.co.jp

 

「純喫茶」の誕生

大正12(1923)年の「関東大震災」から復興した
東京の街には、カフェーが至る所に建てられ、
昭和になると、東京には
数千軒のカフェーで溢れたと言われています。
 
そして昭和5(1930)年頃になると、
女給(食事や飲物を提供するウェイトレス)が
客の隣に座り接待をする、
色っぽいサービスをウリにする店が急増。
警察はカフェーへの取り締まりを強化し始め、
昭和8(1933)年に
「特殊飲食店営業取締規制」が出され、
女性が接待をする店は
「特殊飲食店」として規制下に置かれ、
そうでない店を「純喫茶」と呼ぶように
なりました。