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8月25日は「東京国際空港開港記念日」。昭和6(1931)年8月25日に「東京飛行場」開港。

 
8月25日は「東京国際空港開港記念日」です。
 
昭和6(1931)年8月25日、東京・羽田に
日本初の民間航空機専用空港である
「東京飛行場」が開港しました。
 
 
 
その14年前の大正6(1917)年、羽田の地に、
「日本飛行学校」の飛行訓練場が出来ました。
 
「日本飛行学校」は、大正5(1916)年、
「日本のライト兄弟」と呼ばれた
玉井清太郎・藤一郎兄弟が創設した
日本初のパイロット養成学校です。
 
兄・清太郎は、独学で飛行機の研究をし、
2歳下の藤一郎とともに資金集めに苦労しながら
「玉井式飛行機」の試作を重ね、
大正5(1916)年10月5日、
「玉井式2号機」の初飛行に成功。
ライト兄弟の初飛行から13年後のことでした。
 
 
そしてこの日が「日本飛行学校」の創立日で、
現在の東京国際空港となった羽田の地での
初飛行の日とされます。
明治43(1909)年12月19日、陸軍大尉の徳川好敏が
高度70m、飛行距離3kmを記録、
これが日本での「公式の初飛行」となりました。
但しその5日前の12月14日、陸軍大尉・日野熊蔵が
代々木練兵場で目測で60m飛行したのが
「非公式の初飛行」とされています。
なお国産の飛行機による初飛行は、
明治44(1910)年5月5日、奈良原三次が自ら製作した
「奈良原式2号」を自ら操縦して達成。
 
「日本飛行学校」の当初の目的は、
航空技術の発展を促進し、
飛行士を育成することでした。
 
飛行練習は、多摩川を渡し舟で越えて
多摩川河口近くの三本葭へ向かい、
羽田町では、元料亭を校舎として利用して、
同時に機体製作の作業場も確保しました。
 
大正5(1916)年12月には
最初の6人の練習生が第一期生として入校し、
続いて年末に5名が二期生として入校し、
交互に飛行訓練を行いました。
これら初期練習生の中には、
後に映画『ゴジラ』などの特技監督を務めた
円谷英二もいました。
 
 
残念ながら、翌大正6(1917)年5月20日に
清太郎は3人乗りの「玉井式3号機」で墜死。
学校は一時的に休校となりますが、
後援会の支援を受けて再開し、
羽田は大空の挑戦者達の挑戦の舞台でしたが、
第二次世界大戦の影響で活動は制限され、
最終的には解散に至りました。
 
 
ところで「東京飛行場(後の羽田空港)」は、
逓信省航空局が昭和5(1930)年1月に
東京府荏原郡羽田町大字鈴木新田の埋立地を
飛行場用地として購入、3カ年計画で建設に着手。
翌昭和6(1931)年8月に建設工事が完成し、
逓信省による民間専用飛行場である
「東京飛行場」が開設しました。
総面積は52.8ha、滑走路は300m×15m。
全てが手旗信号で、管制塔もありませんでした。
 
 
なお昭和6(1931)年8月25日の
記念すべき開港第1号のフライトは、
日本航空輸送が運航する
満州の大連行きの6人乗りのプロペラ機で、
乗っていたのは松虫と鈴虫6千匹であったとか。
何でも、大連でカフェを経営している日本人が
異国の地に住む日本人にも
秋の風情を感じてもらいたいからと
取り寄せたそうです。
 
なお大連までに要する時間は
今では3時間程のフライトですが、
当時は約12時間ものかなりのロングフライト。勿論、航空運賃も庶民には手の届かない
非常に高いものでした。
記念すべき初飛行を乗客なしで
飛ばす訳にもいかなかった飛行会社の
営業努力の結果が松虫と鈴虫だったようです。
 
こうしてスタートした「東京飛行場」でしたが、
その後、朝日・報知・東京日日の各新聞社や
東京飛行機製作所が格納庫を設置。
定期便の路線も次第に増え、
満州への旅客・貨物輸送が増大により、
昭和13(1938)年から昭和14(1939)年にかけ、
逓信省は飛行場を72.8haに拡張し、
滑走路も800m×80mを東西方向及び南北方向に
それぞれ1本ずつの2本整備し、
「東京飛行場」は、定期航空便や
内外の国際親善飛行の出発・到着地となり、
日本の中心飛行場となりました。
 
その後、戦争により、
定期航空機も迷彩色に塗り替えられ、
海軍航空隊の練習生訓練用に利用され、
やがて終戦を迎えました。
 
 
第2次世界大戦後はGHQに接収され、
羽田陸軍航空基地として
米軍の軍事下に置かれたのと同時に、
滑走路拡張のため近隣住民に対して
強制退去が命ぜられました。
 

 
そんな中、ただ一つだけ撤去することが
出来なかったものがありました。
「赤鳥居」です。
あまりにも頑丈でどうしても動かせず、
更に撤去を試みた作業員はケガをするという
伝説も……。その真相は定かではありません。

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その後、昭和26(1951)年9月8日、
「サンフランシスコ講和条約」が締結され、
翌昭和27(1952)年4月28日の発効により、
同年7月に空港施設の一部が
GHQから日本に返還されると、
「東京国際空港(通称:羽田空港)」と改称し、
再出発しました。
その4年後には、日本初の「国際航空拠点」に
指定されるという快挙を成し遂げています。
 
 
現在、「羽田空港」は、
年間約38万4000回の航空機発着回数を誇り、
旅客数は約6,670万人にも上ります。
これは国内最大規模で、
世界でも4番目の旅客数を誇る空港と
なっています。