
後れ菊(おくれぎく)
重陽を過ぎてから咲く菊、
または盛りを過ぎた
晩秋や初冬に咲いている菊の花のことを
「後れ菊」(おくれぎく)「後の菊」(のちのきく)
などと呼びます。
このことから、時機に遅れて
価値を失ったものの比喩として使われます。
十日の菊(とおかのきく)
翌日に咲いた「菊」、
過ぎても咲いている「菊」を
「十日の菊」(とおかのきく) と言います。
後に咲いた菊なので、
「後日の菊」(ごにちのきく) とも言います。
転じて、時機に遅れて役に立たないことの
たとえとして用いられています。
六日の菖蒲、十日の菊
(むいかのしょうぶ、とおかのきく)

日本で多用されている諺に、
「六日の菖蒲、十日の菊」
(むいかのしょうぶ、とおかのきく)
というのがあります。
これは、5月5日の「端午の節句」に
遅れてしまった「菖蒲」と、
9月9日の「重陽の節句」に間に合わない菊は、時機に遅れてしまい、
今更役に立たないことのたとえです。
5月5日の「端午の節句」に飾る菖蒲を6日目に、
9月9日の「重陽の節句」に飾る菊を10日目に
用意しても、節句の役目を終えてしまい
意味がないことから、このように表現されます。
残菊(ざんぎく)
陰暦9月9日の重陽の節句以後の菊、
盛りを過ぎた晩秋の菊を「残菊」(ざんぎく) とか
「残る菊」(のこるきく)「菊残る」(きくのこる) と
呼ぶことがあります。
「残菊の候」(ざんぎくのこう) は、
秋の終わりである10月後半から11月頃、
特に冬の始まりである立冬 (11月7日頃) に
かけて使われる時候の挨拶です。
秋の盛りを過ぎて咲き残った菊には、
重陽の節句の華やかさとは異なり、
寒さの中で一輪、また一輪と
ひっそりと健気に咲く姿に、
また違った情趣があるということで、
愛でられてきました。
残菊宴(ざんぎくのえん)
昔は「残菊の宴」(ざんぎくのうたげ) を催して、
「後の菊」を愛でました。
小重陽(こちょうよう)
重陽の翌日の陰暦九月十日は、
昔のChinaでは「小重陽」(こちょうよう) と呼んで
祝ったそうです。
観菊の宴
平安前期の『類聚国史』(892)という歴史書には桓武天皇の延暦16(797)年10月に
「観菊の宴」が行われたことが記されています。
旧暦10月ならば初冬なので、
この「観菊の宴」は
「残菊の宴」ということが出来るでしょう。
この宴では、桓武天皇が散り行く菊を惜しんで
次のような和歌を詠んでいます。
このごろの しぐれの雨に
菊の花 散りぞしぬべき あたらその香を
菊の花 散りぞしぬべき あたらその香を
「この頃の時雨の雨に、
菊の花が散ってしまいそうだ。
悲しいことに香りも消えてしまうのだろう」
といった意味でしょうか。
宇多天皇の公宴
『日本紀略』によれば、
宇多天皇は仁和4(888)年、
先帝(光孝天皇)の周忌が近いとして
「重陽の宴」を停止しますが、
翌年の寛平元(889)年9月9日には、
早速、「重陽の宴」を復活させたことが
記されています。
更にその直後の9月25日にも「公宴」を催して、
「惜秋翫残菊」(せきしゅうがんざんぎく) という題で
文人達に詩を詠ませました。
実質的にはこれが「残菊の宴」の最初と
言われています。
この後も宇多天皇は、
寛平2(890)年、6(894)年、7(895)年にも
「重陽宴」と「残菊宴」の
両方を開催したということは、
「残菊」を殊の外愛していたからに
他なりません。
醍醐天皇が延長8(930)年9月に崩御して以降、
遊興の要素の強い9月の「重陽節会」は
停止されてしまいます。
ですが村上天皇は、
『停九日宴十月行詔<世号残菊宴>』を発して
天暦5(951)年に「重陽節会」ではなく
「残菊宴」という形で復活させました。
そして「残菊の宴」は10月5日に固定された
ようです。
室町中期の『公事根源』(一條兼良)には、
「残菊宴 (十月)五日 昔菊花ゑんは九月九日にて、
又残菊のえんとて、十月五日に行はれし也。
是も群臣詩を作、酒をたまふ事重陽におなじ。
とあります。
残菊・移ろい菊
ところで白や黄色の菊の花は、
急激な気温低下で霜に遭うと
「霜焼け現象」を起こして紫色に変色します。
これを「残菊」「移ろい菊」と呼んで
賞翫するのは
Chinaにはない、日本人独特の感興です。
咲き残っている菊の花というだけではなく、
時が移ろい、霜を受けて美しく変化した菊花は
「移ろい菊」という名前で好まれ、
沢山の詩が残されています。
『古今和歌集』には、
「秋おきて時こそ有けれ菊の花
うつろふからに色のまされば」(平貞文)
秋とは別の時にも盛りがあるのが菊の花です。
色が変わるとともに増していきますから。
色が変わるとともに増していきますから。
また『後拾遺和歌集』には、
「紫にやしほ染めたる菊の花
うつろふ色と誰かいひけむ」(藤原義忠)
紫に何度も染めたような美しい菊の花を、
色褪せた花などと誰が言ったのだろう
色褪せた花などと誰が言ったのだろう
など枚挙に暇がありません。
また『源氏物語(藤裏葉)』では、
六位から始まって中納言に出世した夕霧が、
(妻の)雲井の雁の乳母の大輔 (たいふ) に
「姫君は六位の男と結婚をなさる御運だった」
と嫌味を言われたことを思い出して、
美しい白菊が紫を帯びて来た移ろい菊を添えて
<浅緑 若葉の菊を露にても
濃き紫の 色とかけきや>
あの時は浅葱色と馬鹿にされましたが、
あなたは私が濃い紫の納言の袍を着るとは
思いもしなかったでしょうね。
あなたは私が濃い紫の納言の袍を着るとは
思いもしなかったでしょうね。
と昇進による当色 (とうじき) の変化を
「移ろい菊」に例えています。
平安時代、「紫」は
高位高官の袍 (ほう) の色とされ、
また優美な色彩として愛されました。
『源氏物語』が
「紫」を中心として物語構成され、
作者の「藤」式部が「紫」式部と
呼ばれるようになったことにも、
平安貴族の「紫」好きが表われています。
白や黄色が「紫」に変化する
「残菊」や「移ろい菊」が好まれたのも
当然のことでしょう。
今も行われる「残菊の宴」
菅原道真公ゆかりのお社である
「太宰府天満宮」では、
菊の花を愛でられた菅原道真公をお偲びし、
康保元(964)年に小野篁 (おののたかむら) の孫である
小野好古により「残菊の宴」が始められたと
伝えられています。
平安時代になると
大宰府に赴任した官人達により
宮廷行事が再現されるようになりました。
天徳2(958)年には「曲水宴」、康保元(964)年に「残菊宴」、長徳元(995)年に「内宴」、
永承元(1046)年に「七夕宴」が
次々と中央より移入され年中行事となり、
「四度宴」(しどのえん) と呼ばれました。
途絶えたりした時代もありましたが、
現在は「曲水宴」(きょくすいのえん)、
「七夕宴」「残菊宴」が行われており、
季節毎に往時の文化に触れることが出来ます。
「残菊宴」では、
色とりどりの菊鉢植えが飾られ
秋の香りが漂う中、
曲水の庭で不老長寿を願い菊酒をいただく
「盃の儀」の後、
文書館大広間で「墨書の儀」が行われます。