
家紋
日本で家紋の元になる文様を付け始めたのは
11世紀後半の平安時代中頃からと言われて
います。
最初は、公家が自分の輿車 (よしゃ) を区別し装飾したり、衣服の文様に用いたりといった用途から発展したそうです。
その中で、公家は自分の子孫にも
特定の文様を伝えるようになり、
「家紋」が成立していったと言われています。
「家紋」は衣服や調度品、屋敷の瓦などにも
用いられるようなり、
その後は武士もそれに倣って
それぞれ自家の「家紋」を定めるように
なっていきました。
皇室のシンボル
「菊の御紋」
「菊花紋」は言うまでもなく
皇室の御紋章です。
「菊紋」には、
花のみ、葉のみなど多くの種類があり、
花弁も5~36弁、一重菊や八重菊など
様々あります。
これら様々な菊紋のうち、
八重菊を図案化した菊紋である
「十六八重表菊」(じゅうろくようやえおもてぎく) は
天皇及び皇室を表す紋章で、
俗に「菊の御紋」とも呼ばれています。
鎌倉時代、菊の花を愛した後鳥羽上皇が
身の回りの品々に
菊花文様を付けたことが始まりで、
それを見た臣下達が
次第に菊紋の使用を控えたため、
結果的に「菊紋」が
天皇専用の家紋となりました。
明治維新後、明治元(1868)年の太政官布告で
この「菊の御紋」を
みだりに使用することが禁じられ、
翌明治2(1869)年8月25日の太政官布告802号
「親王家ノ菊章ヲ定ム」で
天皇と東宮 (皇太子) のみが使用出来、
親王などの皇族はこの紋の使用を制限され
ました。
大正15(1926)年の「皇室儀制令」
(大正15年皇室令第7号)13条発布を経て、
有栖川宮家・伏見宮家などは
「十四裏菊」や「十六裏菊」に
独自の図案を加えたものを、
秩父宮家・三笠宮家・久邇宮家などは
「十六八重表菊」を小さな図案によって
用いたものを各宮家の紋としました。
昭和期には、法令上の使用は縛られなくなり、
現在では「菊の御紋」を
直接的に使用禁止する法令はありませんが、
国旗に準じて商標登録を禁止されています。
後鳥羽上皇の正統な後継者
鎌倉時代初期の後鳥羽上皇が菊花を愛し、
自らの手元の品などに
「菊花紋」を描いたことに始まり、
皇室の家紋を「菊紋」とし、
現代まで受け継がれているというのは、
よく知られている話です。
しかしそれはあくまでも
後鳥羽上皇個人の趣味に過ぎません。
それが従来の「桐竹紋」を押し退けて、
「皇室の紋章」にまでなったのは
なぜでしょう?
後鳥羽上皇
天皇が存命中にその地位を後継者へ譲ることを
「譲位」と言いますが、
譲位した天皇の尊称 (そんしょう) として
律令に定められたのが
「太上天皇」(だいじょうてんのう/だじょうてんのう)、
略称「上皇」(じょうこう) です。
菊の愛好家として知られた後鳥羽上皇は、
京都の朝廷から有力な武士が台頭する時代へ
移り変わる只中の元暦元(1184)年9月4日、
第82代天皇に4歳で即位しました。
建久9(1198)年1月、19歳で土御門天皇に譲位し
後鳥羽上皇となり、順徳天皇、仲恭天皇と
3代23年間に亘って院政を敷きました。
朝廷の頂点に君臨していた上皇には、
全国各地から後ろ盾を求め荘園寄進が相次ぎ、上皇は屈指の荘園保有数を誇っていました。
そんな折、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝死去後、
2代将軍頼家、3代将軍実朝が共に早世し、
清和天皇を祖とする源氏本流の血筋が
途絶えてしまいました。
これは千載一遇の「大逆転」のチャンス。
後鳥羽上皇は鎌倉幕府の打倒を計画し、
「流鏑馬揃い」(やぶさめぞろい) を名目に、
北面・西面の武士や諸国の武士、有力御家人ら
1千余騎を集めると北条義時追討の院宣を発し、
承久3(1221)年5月、「承久の乱」が勃発します。
しかし鎌倉幕府方の迅速・的確な対応により、
幕府方が悉く勝利し、京に雪崩込んで
一気に勝負を決めたのです。
首謀者である後鳥羽上皇は隠岐へ、
順徳上皇は佐渡へと流され、
更に後鳥羽上皇の計画に反対していた
土御門上皇も自ら望み土佐へ配流され、
「承久の乱」は鎌倉幕府の勝利で
幕を閉じました。
後鳥羽院が隠岐で過ごした19年間の暮らしは、
仏への信仰と和歌を詠む日々だったそうです。
そして延応元(1239)年、都への帰還の夢は
遂に叶わず、同地で崩御。享年60歳でした。
隠岐・中ノ島には、後鳥羽上皇行在所跡があり
島の人達は現代でも後鳥羽院のことを
「ごとばんさん」と親しみを込めて呼んで
います。
持明院統と大覚寺統
鎌倉幕府は、次代皇位継承者には、
「承久の変」の首謀者である
後鳥羽上皇の直系子孫を除外する方針で、
仲恭天皇は廃され、
この時10歳であった後堀河天皇が即位し、
後堀河の父で後鳥羽院の同母弟の守貞親王が
院政を行うことになりました。
ところが、後堀河天皇の次の四条天皇が
10歳で事故死してしまい、守貞親王系から
皇位継承可能な皇子は絶えてしまいました。
そこでやむなく後鳥羽上皇系の孫で
土御門上皇の皇子・邦仁王(後嵯峨天皇)を
即位させました。
公家達は、承久の変に深く関わっていた
順徳天皇の子の忠成王 (ただなりおう) を
即位させたかったのですが、
幕府は、中立的立場であった土御門天皇の子
邦仁王(後嵯峨天皇)を即位させたことから、
後嵯峨天皇は、朝廷・公家社会の中で
微妙な立場にあったのです。
そこで後嵯峨天皇は、後鳥羽上皇の
正統な後継者であることを示すために
菊花紋を牛車に描いたと
後嵯峨上皇に院司 (いんじ) として仕えた
葉室定嗣 (はむろさだつぐ) は、寛元4(1246)年3月の
日記『葉黄記』(ようこうき) に記されています。
後嵯峨上皇の御牛車の文様は
後鳥羽院の例に従うこととする。
牛車の袖に、菊一本の中に菊八葉を
描いたものである。
後鳥羽上皇は菊の文様をよくお使いで
あった。
前漢が滅びた後、後漢の光武帝は
前漢の礼法を再興した。
後鳥羽院の御車文を用いることは、
この例に倣うものである。
菊を愛した後鳥羽上皇の正統後継者で
あることを示すために菊花文を用いる
ことは、光武帝が前漢の礼法を再興することによって後漢が「漢王朝の再興」であり、光武帝が正統なる後継者であることを示した故事に倣うものであると。
御嵯峨天皇の後、皇統は
後深草天皇(持明院統)と
その弟の亀山天皇(大覚寺統)に分かれて
「我こそが後鳥羽系正統である」と
皇位を競い合うようになります。
そしてそれぞれが正統を象徴するものとして
「菊花紋」を用いるようになりました。
こうして「菊花紋」は皇室のシンボルに
位置づけられるようになりました。
「菊紋」を下賜された人物
南北朝時代以降は
功績のあった公家や武家に恩賞として
天皇より「菊紋」が下賜されるケースも
ありました。
足利尊氏(足利将軍家)
鎌倉幕府を倒し、
「建武の新政」を打ち立てるに当たり
功労者として後醍醐天皇より最も手厚く
処遇されたのは足利尊氏でした。
尊氏は数々の所領を与えられた他、
後醍醐天皇のお名前の
「尊治」(たかはる) の一字を与えられて
「高氏」から「尊氏」に改名しただけでなく、
恩賞の一つとして「菊紋」「桐紋」を
与えられたと伝わっています。
なお足利尊氏の主だった家紋は、
円の中に2本の線が入った「二つ引両」です。
豊臣秀吉
秀吉は、天正14(1586)年、「豊臣」の姓を
正親町天皇から下賜されますが、
合わせて 「菊紋」「五七の桐紋」 を拝領しました。
秀吉はそれまで「沢潟紋」(おもだかもん) を
使用していたそうですが、
以降、「菊紋」「桐紋」を
自らの衣服や所有物、建物や城の外装にまで
どんどん使用していったそうです。
西郷隆盛
時代は下がり江戸時代になると
幕府の紋である「葵の御紋」は
幕府の象徴であるから民間で使われることは
固く禁じられていましたが、
「菊の御紋」は制限がなかったので
親しみのある紋として民間でも使われました。
明治以降は天皇家の権威を高めるため、
逆に「菊の御紋」の民間での使用は
制限されることとなりました。
そんな中、幕末に活躍した西郷隆盛が
維新の功績により、明治天皇から
「抱き菊の葉に菊」(だききくのはにきく)、
別名「南州菊」を下賜されました。
この「抱き菊の葉に菊」は、
明治天皇自ら考案されたもので、
菊を天皇とし左右の葉を西郷に見立て
「天皇を左右から補佐せよ」との意味が込められた奥深い紋章だそうです。
木戸孝允
同じく維新の勲功のあった木戸孝允にも
菊菱の左右に重なるように2枚の菊の葉を描いた「菊菱に対い葉」(きくびしにむかいは) が
下賜されています。