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御霊会(ごりょうえ)

京都の北野天満宮では、神職比叡山延暦寺の僧侶と一緒に、
「疫病退散」などを願う神仏習合の儀式が、
およそ550年ぶりに執り行われ新型コロナウイルスの終息を願いました。
 
 
「御霊会」(ごりょうえ)とは、「御霊祭」(みたままつり)とも言われ、
思いがけない死を迎えた者の御霊による祟りを防ぐための、
鎮魂のために行われるものです。
 
平安時代には、不慮の死を遂げた者の死霊=怨霊へと意味が転化しました。
そして、天変地異は全て御霊の所業と考えられ御霊に対する信仰が出来上がりました。
貞観5年(863)5月20日神泉苑において「御霊会」が行われました。
『金光明経』・『般若心経』と言った仏教経典の読経とともに、
歌舞音曲や民衆参加の踊りなども行われ、
この行事が、神道的な祟の除去を目的としたことや民衆の参加を許した
神仏習合的な神事のことを言います。
 
 
 
主な御霊
 
<六所御霊>
 貞観5年(皇紀1523年・863年)の神泉苑での御霊会において祀られた
 5柱の御霊と後に加えられた藤原広嗣の御霊のこと
 
 
崇道天皇早良親王・追諡)
桓武天皇の信頼が厚かった藤原種継が暗殺された容疑を掛けられた皇太子・早良親王は捕えられ、皇太子を廃されて、乙訓寺に幽閉されます。
全くの無実であると10日余り一切の飲食を絶って抗議されましたが聞き入れられず、淡路国に流される途中で絶命されました。
しかし事件の後、桓武天皇の周辺に不幸が襲いかかったため占わせてみたところ、「早良親王の祟り」であると出たため、天皇はすぐに淡路国に使いを遣り、早良親王に謝しました。更に崇道天皇追号し、名誉を回復されました。
 
 
伊予親王桓武天皇の皇子)
・藤原夫人伊予親王の母親 藤原吉子
桓武天皇夫人とその皇子。
桓武帝が薨去後、藤原宗成が謀反の首謀者は親王だと告白、平城天皇はこれを信じて親王号を剥奪し、御母藤原夫人とともに河原寺に幽閉。
お二人は飲食をさせてもらえず遂に毒を仰いで亡くなりました。
幼い時から病弱で性格も猜疑心が強く精神的に不安定であった天皇は、たった3年で嵯峨天皇皇位を譲ります。
上皇となって後、藤原仲成・薬子兄妹の野望に耳を傾け、平城京遷都の詔勅を発し、いわゆる「薬子の変」が勃発します。
温厚な嵯峨天皇もさすがにこれを許さず、仲成は射殺され薬子は服毒自殺、平城上皇は失意のうちに出家されたのでした。
 
 
・橘大夫(橘逸勢
書の才能に長じ、嵯峨天皇空海とともに三筆の一として数えられた橘逸勢は、延暦の末に遣唐使で入唐し、その才学は唐人から橘秀才と称賛されました。
しかし、「承和の変」により逮捕され、拷問を受けた後、伊豆へ配流される途中の遠江国で亡くなられました。
 
 
・文大夫(文室宮田麻呂
承和10年(843)に突然謀反の疑いありとの訴えにより、左衛門府に拘禁され、遂には伊豆へ配流されました。
 
 
・観察使(藤原広嗣
藤原広嗣が、玄昉・吉備真備の専横を非難し、九州の大宰府で挙兵(藤原広嗣の乱)したが、官軍によって鎮圧、処刑されます。
この乱は聖武天皇恭仁京紫香楽宮への転居の原因となり,また折りからの天然痘流行と相俟って、廣嗣の祟りに因るものだと人々は恐れたのでした。
吉備真備公は廣嗣公を祀られ祠を立てて、朝廷に請うて鏡尊廟と号されたのでした。
 
 
 
上御霊神社」と「下御霊神社」では、伊予親王・観察使に代わって
井上大皇后井上内親王)、他戸親王が当てられています。
 
井上大皇后井上内親王
・他戸
(おさべ)親王
井上内親王聖武天皇の皇女。
5歳の時斎王に選ばれ。11歳で神宮に出仕。
30歳で斎王を交代し、任を解かれて平城京へ戻り、後に白壁王(後の光仁天皇)とご結婚、他戸親王が生まれます。稱徳天皇崩御の後、白壁王62歳が光仁天皇に即位したので、井上内親王は54歳で皇后になり、翌年正月23日他戸親王11歳も皇太子になりました。
しかし、天皇を呪う「巫蠱の罪」(ふこだいぎゃく、巫女に天皇を呪い殺す祈祷をさせること) により皇后・皇太子を廃され、 続いて、光仁天皇の姉である難波内親王を呪い殺したという「厭魅の罪」で、 他戸親王と共に宇智郡の没官の宅に幽閉。
その後、母子毒殺され逝去されたと伝えられます。
二人が亡くなって2か月後から異変が始まります。
そのため、光仁天皇は、井上内親王の墳墓を改葬して御墓と称し守冢一烟を置き、翌年には改葬します。
しかし、桓武天皇の世になっても井上内親王母子の影は纏わりついていたようです。
延暦19年(800)、桓武天皇井上内親王を皇后に復することを告げさせ、御墓を御陵(宇智陵)としました。
 
 
<八所御霊>
六所御霊に2柱の御霊が追加されています。
・吉備大臣(吉備真備